「ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m 仮リンクの追加 |
||
(10人の利用者による、間の12版が非表示) | |||
1行目:
[[
'''第3代リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ'''
[[リシュリュー]][[枢機卿]]の[[続柄#大甥・大姪|大甥]]
== 生涯 ==
1696年に[[パリ]]で誕生、ルイ14世が名付け親となった。[[スペイン継承戦争]]の終盤に当たる[[1712年]]に[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]元帥のもとで[[ドゥナの戦い|ランドルシー解囲戦]]に参戦したが、[[1711年]]に[[バスティーユ牢獄|バスティーユ要塞]]に投獄されたこともあり、[[1716年]]に[[決闘]]の罪で、[[1719年]]にはルイ15世の[[摂政]]である[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]失脚を目論んだメーヌ公妃[[ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン]]とスペインの駐仏大使
こうした身持ちの悪さにも
[[七年戦争]]にも参戦して[[1756年]]に[[メノルカ島]]攻略を計画・指揮して[[グレートブリテン王国|イギリス]]から奪取([[
七年戦争の拙い指揮でしばらく政治活動ができなかったが、[[1764年]]のポンパドゥール夫人の死後、後釜に[[デュ・バリー夫人]]を据えることに成功して復活した。しかし、希望していた大臣職の就任は叶わず名目上の[[ラングドック=ルシヨン地域圏|ラングドック]]総督にされて政治から遠ざけられ、[[1774年]]にルイ15世が死去、孫のルイ16世が即位すると王妃[[マリー・アントワネット]]がデュ・バリー夫人と甥のデギュイヨン公を嫌っていた影響で宮廷にも活躍の場は無くなり、1788年に92歳の高齢で死去。息子の
リシュリューについて有名なのは様々な逸話、特に女性関係とルイ15世の愛妾に関わる話である。彼は当代きっての放蕩児と知られ、美人を見れば求め、また求められた。似たもの同士の[[ジャコモ・カサノヴァ|カサノヴァ]]との交友もよく知られている。また[[アカデミー・フランセーズ]]の一員で、[[ヴォルテール]]と交流が深く、[[ジャン=ジャック・ルソー]]とも知り合いで、愛人であった[[エミリー・デュ・シャトレ]]とは愛人関係の解消後も交際を続けた。一方、デュ・バリー夫人の宮廷入りで失脚した宰相[[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール|ショワズール]]からは失脚に関与したと恨まれ、ルイ15世をそそのかし陰謀で成り上がった凡庸な貴族とルイ15世共々回想録で非難されている<ref>グーチ、P333 - P334。</ref>。
20行目:
== 参考文献 ==
* 『ルイ十五世 {{smaller|ブルボン王朝の衰亡}}』[[ジョージ・ピーボディ・グーチ|G.P.グーチ]]著、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1994年。
* {{1911|wstitle=Richelieu, Louis François Armand du Plessis, Duc de|volume=23|page=305}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Louis François Armand de Vignerot du Plessis de Richelieu}}
* [[ショセ=ダンタン通り]]
{{アカデミー・フランセーズ|32|4|1720|1788|フィリップ・ド・ダンジョー|フランソワ=アンリ・ダルクール|てゆふれし るい ふらんそわ あるまん}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てゆふれし るい ふらんそわ あるまん}}
[[Category:ブルボン朝の軍人]]
[[Category:フランスの元帥]]
[[Category:リシュリュー家|るい ふらんそわ あるまん]]▼
[[Category:アカデミー・フランセーズ会員]]
[[Category:スペイン継承戦争の人物]]
[[Category:ポーランド継承戦争の人物]]
[[Category:オーストリア継承戦争の人物]]
[[Category:七年戦争の人物]]
[[Category:1696年生]]
[[Category:1788年没]]
|