「ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ」の版間の差分

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[[ImageFile:The Maréchal-Duke of Richelieu, maréchalafter Jean Marc Nattier (The Wallace Collection).jpg|240px|thumb|リシュリュー元帥]]
'''第3代リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ'''(Louis({{lang-fr-short|Louis François Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu}}, [[1696年]][[3月13日]] - [[1788年]][[8月8日]])は、[[フランス王国|フランス]]の貴族、軍人。内廷侍従長、[[フランス元帥|陸軍元帥]]として[[ブルボン朝]]のフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]・[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]・[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の3代に仕えた。
 
[[リシュリュー]][[枢機卿]]の[[続柄#大甥・大姪|大甥]]の子でにあたる{{仮リンク|第2代リシュリュー公アルマン・ジャン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|en|Armand Jean de Vignerot du Plessis, 2nd Duke of Richelieu}}の子。同時代のデギュイヨン公爵[[デギュイヨン公爵エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー|エマニュエル・アルマンド・リシュリュー]]は甥。どちらも[[元帥]]の称号を持つので紛らわしいが、歴史書ではより有名なこちらの人物をリシュリュー元帥と、甥の方はデギュイヨン公爵と記す場合が多い。[[フランス復古王政]]期の[[フランスの首相|首相]]を2度務めた第5代リシュリュー公[[アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|アルマン・エマニュエル]]は孫に当たる。
 
== 生涯 ==
1696年に[[パリ]]で誕生、ルイ14世が名付け親となった。[[スペイン継承戦争]]の終盤に当たる[[1712年]]に[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]元帥のもとで[[ドゥナの戦い|ランドルシー解囲戦]]に参戦したが、[[1711年]]に[[バスティーユ牢獄|バスティーユ要塞]]に投獄されたこともあり、[[1716年]]に[[決闘]]の罪で、[[1719年]]にはルイ15世の[[摂政]]である[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]失脚を目論んだメーヌ公妃[[ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン]]とスペインの駐仏大使[[{{仮リンク|アントニオ・デル・ジュディーチェ|label=チェッラマーレ公]]|en|Antonio del Giudice}}の陰謀([[{{仮リンク|チェッラマーレ陰謀事件]]|en|Cellamare conspiracy}})に加担した罪で3度投獄された。フィリップ2世の娘[[カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス]]と恋愛騒動を起こしたことも投獄に繋がった。
 
こうした身持ちの悪さにもかかわらずルイ15世からは内廷侍従長として重用され、[[1725年]]から[[1729年]]の4年間は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]駐在大使を務め[[ウィーン]]に滞在した。また、ルイ15世に[[ネール姉妹]]を斡旋した首謀者と見なされており、特に従妹の[[マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール|シャトールー公爵夫人]]との関係は密接でしばしば手紙で宮廷の情報を交換し合っていた。[[ポーランド継承戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]に参戦、[[1743年]]の[[デッティンゲンの戦い]]と[[1745年]]の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]でフランス軍に従軍した一方、[[1744年]]のシャトールー公爵夫人の死後ルイ15世の[[公妾]]となった[[ポンパドゥール夫人]]が勢力を振るうようになるとはじめは抵抗したが、後に抵抗の不利を悟って恭順の姿勢を示した<ref>グーチ、P113、P136 - P156、P201 - P203。</ref>。
 
[[七年戦争]]にも参戦して[[1756年]]に[[メノルカ島]]攻略を計画・指揮して[[グレートブリテン王国|イギリス]]から奪取([[セント・フィリップ砦包囲戦 (1756年)|メノルカ島の海包囲戦]])、翌[[1757年]]にドイツ戦線の司令官を[[ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ (デストレ公)|デストレ公]]から引き継ぎイギリスの大陸領でもある[[ハノーファー王国|ハノーファー]]を侵略してイギリス軍を追い詰めたが、イギリス軍司令官の[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]と[[クローステル・ツェーヴェン協定]]を結び撤退した([[{{仮リンク|ハノーファーの侵略 (1757)|label=ハノーファーの侵略]]|en|Invasion of Hanover (1757)}})。戦後フランス政府から汚職と協定が寛大過ぎると非難され辞職、軍人としての評価は高くない。
 
七年戦争の拙い指揮でしばらく政治活動ができなかったが、[[1764年]]のポンパドゥール夫人の死後、後釜に[[デュ・バリー夫人]]を据えることに成功して復活した。しかし、希望していた大臣職の就任は叶わず名目上の[[ラングドック=ルシヨン地域圏|ラングドック]]総督にされて政治から遠ざけられ、[[1774年]]にルイ15世が死去、孫のルイ16世が即位すると王妃[[マリー・アントワネット]]がデュ・バリー夫人と甥のデギュイヨン公を嫌っていた影響で宮廷にも活躍の場は無くなり、1788年に92歳の高齢で死去。息子の[[{{仮リンク|ルイ・アントワーヌ・ソフィー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ|label=ルイ・アントワーヌ・ソフィー]]|en|Antoine de Vignerot du Plessis}}が爵位を継承した<ref>グーチ、P317 - P325、P369。</ref>。
 
リシュリューについて有名なのは様々な逸話、特に女性関係とルイ15世の愛妾に関わる話である。彼は当代きっての放蕩児と知られ、美人を見れば求め、また求められた。似たもの同士の[[ジャコモ・カサノヴァ|カサノヴァ]]との交友もよく知られている。また[[アカデミー・フランセーズ]]の一員で、[[ヴォルテール]]と交流が深く、[[ジャン=ジャック・ルソー]]とも知り合いで、愛人であった[[エミリー・デュ・シャトレ]]とは愛人関係の解消後も交際を続けた。一方、デュ・バリー夫人の宮廷入りで失脚した宰相[[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール|ショワズール]]からは失脚に関与したと恨まれ、ルイ15世をそそのかし陰謀で成り上がった凡庸な貴族とルイ15世共々回想録で非難されている<ref>グーチ、P333 - P334。</ref>。
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== 参考文献 ==
* 『ルイ十五世 {{smaller|ブルボン王朝の衰亡}}』[[ジョージ・ピーボディ・グーチ|G.P.グーチ]]著、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1994年。
* {{1911|wstitle=Richelieu, Louis François Armand du Plessis, Duc de|volume=23|page=305}}
* {{1911}}
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Louis François Armand de Vignerot du Plessis de Richelieu}}
* [[ショセ=ダンタン通り]]
 
{{アカデミー・フランセーズ|32|4|1720|1788|フィリップ・ド・ダンジョー|フランソワ=アンリ・ダルクール|てゆふれし るい ふらんそわ あるまん}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てゆふれし るい ふらんそわ あるまん}}
[[Category:ブルボン朝の軍人]]
[[Category:フランスの元帥]]
[[Category:リシュリュー家|るい ふらんそわ あるまん]]
[[Category:アカデミー・フランセーズ会員]]
[[Category:リシュリュー|るい ふらんそわ あるまん]]
[[Category:スペイン継承戦争の人物]]
[[Category:ポーランド継承戦争の人物]]
[[Category:オーストリア継承戦争の人物]]
[[Category:七年戦争の人物]]
[[Category:1696年生]]
[[Category:1788年没]]