削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
m Bot作業依頼#Cite webテンプレートのdeadlink、deadlinkdate引数の移行
 
(20人の利用者による、間の19版が非表示)
1行目:
{{Otheruses||[[西武鉄道|西武]][[西武多摩湖線|多摩湖線]]の駅|青梅街道駅}}
{{Ja_Route_SignStack begin|140|alignfloat=left|margin=true}}
{{Ja_Route_SignJa Route Sign|411141|align=left}}
{{Ja_Pref_Route_Sign|pref=東京|number=Ja 4Route Sign|411|align=left}}
{{Ja_Pref_Route_SignJa Pref Route Sign|pref=東京|number= 54|align=left}}
{{Ja_Pref_Route_SignJa Pref Route Sign|pref=山梨東京|number= 65|align=left}}
{{Ja_Pref_Route_SignJa Pref Route Sign|pref=山梨|number= 2056|align=left}}
{{Ja_Pref_Route_SignJa Pref Route Sign|pref=山梨|number= 216205|align=left}}
{{Ja Pref Route Sign|pref=山梨|number= 216|align=left}}
'''青梅街道'''(おうめかいどう)は、[[東京都]][[新宿区]]から東京都[[青梅市]]を経由し、[[山梨県]][[甲府市]]に至る73キロメートル (km)の東西に横断する[[道路]]である。
{{Stack end}}
'''青梅街道'''(おうめかいどう)は、[[東京都]][[新宿区]]から東京都[[青梅市]]を経由し、[[山梨県]][[甲府市]]に至る73132キロメートル (km)の東西に横断する[[道路]]である。
 
[[1962年]]([[昭和]]37年)[[4月25日]]、東京都[[通称]]道路名設定[[公告]]により通称を設定(整理番号17)。青梅市街には、[[東青梅|東青梅三丁目]]交差点 - [[青梅市民会館]]前交差点に[[旧道]]が残り「旧青梅街道」と呼ばれる(整理番号129)<ref>[https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000040677.pdf 東京都通称道路名一覧表] 東京都建設局、[[1962年]]([[昭和]]37年)[[4月25日]]公告。2020年6月29日閲覧。</ref>。また、青梅街道に並行する[[バイパス道路]]として[[新青梅街道]]が設置されている(整理番号85)。{{main2|東京都が通称を設定した道路|東京都内の通り}}
13 ⟶ 15行目:
== 地理 ==
通過する自治体は以下の通り。都県境は、東京都西多摩郡奥多摩町 - 山梨県北都留郡丹波山村(鴨沢橋)にある。
* 東京都
** 新宿区 - [[中野区]] - [[杉並区]] - [[練馬区]] - [[西東京市]] - [[小平市]] - [[東大和市]] - [[武蔵村山市]] - [[西多摩郡]]瑞穂町 - 青梅市 - 西多摩郡奥多摩町 -
* 山梨県
** [[北都留郡]]丹波山村 - [[甲州市]] - [[山梨市]] - [[笛吹市]] - 甲府市
{{Clear|left}}
 
== 路線名 ==
青梅街道はほぼ[[国道]]と[[都道府県道]]で構成される。
30 ⟶ 32行目:
 
== 経路 ==
{{Multiple image
[[File:Shinjukuogado20101.JPG|thumb|200px|right|新宿大ガード西交差点]]
| direction = vertical
[[画像:Minamiasagaya-Station-2005-6-12 1.jpg|thumb|200px|right|杉並区役所前交差点]]
| width = 200
[[画像:Kyu_Omekaido.jpg|thumb|200px|right|青梅市内の旧青梅街道]]
| image1 = ome kaido 0km.jpg| caption1 = 起点である新宿大ガード西交差点
[[ファイル:Sakai-hashi.jpg|thumb|200px|right|[[奥多摩湖|小河内ダム]]直下の[[多摩川]]の境橋]]
[[File:| image2 = Shinjukuogado20101.JPG|thumb|200px|right| caption2 = 新宿大ガード西交差点]](夜)
[[ファイル:Yamazaki junction of three roads.JPG|thumb|200px|right|終点の甲府市酒折山崎三差路(甲州街道交点)]]
| image3 = narukozaka 2403.jpg| caption3 = 成子坂では中央分離帯に植栽がある
 
| image4 = Yodobashi 230721b.jpg| caption4 = 淀橋交差点
| image5 = nakanosaka 2403.jpg| caption5 = 中野坂
| image6 = Ome kaido nakano sakaue west.jpg| caption6 = 中野坂上交差点の西側
[[画像:| image7 = Minamiasagaya-Station-2005-6-12 1.jpg|thumb|200px|right| caption7 = 杉並区役所前交差点]]
[[画像:Kyu_Omekaido| image8 = Kyu Omekaido.jpg|thumb|200px|right| caption8 = 青梅市内の旧青梅街道]]
[[ファイル:| image9 = Sakai-hashi.jpg|thumb|200px|right| caption9 = [[奥多摩湖|小河内ダム]]直下の[[多摩川]]の境橋]]
[[ファイル:| image10 = Yamazaki junction of three roads.JPG|thumb|200px|right| caption10 = 終点の甲府市酒折山崎三差路(甲州街道交点)]]
}}
* 起点:[[新宿大ガード]]西交差点:東京都新宿区
* 中継点 市民会館南交差点 : 東京都青梅市
* 終点:山崎交差点([[甲州街道]]交点):山梨県甲府市
 
起点の新宿大ガード西交差点では、片側3車線の道路として[[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]から直進で接続、[[淀橋]]交差点付近の西側で[[神田川 (東京都)|神田川]]を越えてから坂を西北西に上り、[[中野坂上駅|中野坂上]]交差点で[[東京都道317号環状六号線|山手通り]]と交差した後、緩やかに真西へ向きを変える。[[高円寺]]陸橋交差点で[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]の[[高架橋|高架]]と直角に交差し、ここから片側2[[車線]]となり、[[阿佐ヶ谷]]付近で北西に向きを変えて、[[荻窪駅]]の東側高架橋で[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央本線]]を越える。荻窪駅北口の[[商店街]]を過ぎ、[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]の[[アンダーパス]]と交差する四面道交差点ではX字状に交わる。
 
その後は緩やかなカーブが連続する。[[練馬区]]関町付近から先、東伏見坂上交差点から[[東伏見]]交差点までが下り坂となり、直後の西武柳沢駅前交差点で[[石神井川]]を越え、再び緩やかな上り坂になる。[[西武新宿線]]のガード下を通過直後の[[田無町]]一丁目交差点では左折方向が青梅街道となる。直進すると、ここを起点として[[東京都道・埼玉県道4号東京所沢線|所沢街道]]となり、すぐ北西の北原交差点で[[新青梅街道]]と斜め方向に交差する。
62 ⟶ 72行目:
 
== 名称 ==
[[1606年]](慶長11年)、[[江戸城]]築城のために、青梅の[[成木村]]で採れる[[石灰]]を運搬する道路として、[[大久保長安]]の指揮の下に整備された。当時の名称は'''成木往還'''であった<ref>{{Cite book Sfn|和書 |author=山本和加子 |year=1984 |title=青梅街道 ―江戸繁栄をささえた道― |publisher=聚海書林 |pagespp=11-12 }}</ref>。青梅街道という言葉が文書内に初めて登場するのは『[[新編武蔵風土記稿]]』とされるが、この時点の[[道標]]では、江戸へ向かう道として「江戸道」「小川道」「箱根ヶ崎道」と呼ばれ、また青梅・奥多摩へ向かう道として「あふめ道」「みたけミち」などとも呼ばれていた<ref>{{Cite book Sfn|和書 |year=1995 |title=歴史の道調査報告書 第三集 青梅街道 |publisher=東京都教育委員会 庁生涯学習部文化課|pages=11–15 1995|refpp=harv11-15}}</ref>。また、箱根ヶ崎においては「原江戸道」(はらえどみち)とも呼ばれた{{Sfn|東京都教育委員会庁生涯学習部文化課|1995|pp=16&ndash;-17}}。
 
明治時代になってからは、『[[皇国地誌]]・西多摩郡村誌』によると「東京街道」「甲州脇往還」などと呼ばれた{{Sfn|東京都教育委員会庁生涯学習部文化課|1995|pp=16&ndash;-20}}。
 
[[内藤新宿]]で甲州街道から分かれ、青梅から[[大菩薩峠]]を経由し、甲府の東にある[[酒折|酒折村]](現・甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、青梅街道は江戸と甲府を結ぶ甲州街道の他にも往来できるルートであったことから'''甲州裏街道'''とも呼ばれた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=122}}。また、青梅街道最大の難所が大菩薩峠であることから、別名'''大菩薩峠越え'''とも呼ばれた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=122}}。
 
これら時代や地域によって様々な呼ばれ方をした道が「青梅街道」と固有名詞化されるのは[[1880年]](明治13年)から[[1886年]](明治19年)にかけて作成された[[迅速測図]]からとされ{{Sfn|東京都教育委員会庁生涯学習部文化課|1995|p=22}}、その後[[東京都建設局]]によって[[1962年]](昭和37年)に[[東京都通称道路名]]に正式に設定された。
 
なお、旧仮名遣いでは「あをめかいだう」<ref>例えば精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉など。</ref>。
 
== 経路の変遷 ==
=== 江戸・明治 ===
現在の青梅街道と呼ばれるルートは、[[新宿]]と青梅市を結ぶ経路を一般に指しているが、[[江戸時代]]には甲州街道の第1[[宿場]]である[[内藤新宿]]で甲州街道から分岐し、青梅を経由して[[甲斐国|甲州]]の[[酒折]](現・甲府市)で甲州街道と再合流した{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=121–122121-122}}。歴史的な青梅街道の起点である内藤新宿は現在の[[新宿三丁目駅|新宿三丁目]]交差点付近で、この地点は甲州街道との分岐点([[追分]])であったことから'''新宿追分'''と呼ばれており、現在も[[バス停留所]]([[都営バス]]・[[新宿WEバス]])にその名が残っている。また、現在の起点より100[[メートル]] (m) ほど南、[[思い出横丁]]の入り口付近には、本来の青梅街道が現在の[[角筈ガード]]付近を通っていたことを示す[[碑]]が設置されている。
 
江戸時代においては、現在の[[東大和市]]の青梅橋交差点から先は、北進して奈良橋を経由するのではなく、現在の桜街道(東大和市)および江戸街道(武蔵村山市)を経由する道が青梅街道であった(迅速測図では「青梅道」と記載されている<ref>{{Cite web|和書|title=迅速測図|url=http://aginfo.cgk.affrc.go.jp/altmap/rapid_kanto.html|website=農業土地利用変遷マップ|accessdate=2021-03-02|publisher=[[農業・食品産業技術総合研究機構]] |url-status=dead|url-status-date=2024-04}}</ref>)。さらに、青梅道も現在の武蔵村山市の上砂橋および中原2丁目付近で北西し{{Sfn|東京都教育委員会庁生涯学習部文化課|1995|p=59}}、箱根ヶ崎宿を経由する「江戸道」(迅速測図では「函根崎村道」と記載されている)と、経由しないで青梅宿に直進する「原江戸道」(迅速測図では「青梅村道」「青梅町道」と記載されている)があった。なお、この青梅橋交差点から先の青梅街道は、後に[[プリンス自動車工業]]村山工場により分断され、また原江戸道は[[横田飛行場|多摩飛行場]]により分断された。
 
[[1878年]](明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして[[柳沢峠]]が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。
 
=== 大正・昭和 ===
奈良橋経由の道が青梅街道となるのは[[1926年]](大正15年)頃である{{Sfn|東京都教育委員会庁生涯学習部文化課|1995|p=22}}。その理由としては、人や物資の往来が現青梅街道の方が盛んになり、江戸道、原江戸道と呼ばれた方は人や物資の往来が少なくなったからだとされる{{Sfn|東京都教育委員会庁生涯学習部文化課|1995|p=23}}が、正確にはわからない<ref>{{Cite book Sfn|和書 |author=中西慶爾 |year=1982 |title=青梅街道 |publisher=木耳社 |pagep=68 }}</ref>。ただ、人の往来が増えたためか、大正時代になってから道路の拡幅・直線化が行われ始めた。
 
; 東大和市
: [[1919年]](大正8年)、奈良橋交差点から西に約20メートルの交差点から先は左にカーブする道だったが、当時6つの村([[清水村 (東京府)|清水村]]、[[狭山村]]、[[高木村 (東京府)|高木村]]、[[奈良橋村]]、[[蔵敷村]]、[[芋窪村]])が合併し「大和村に合併され」となっことを記念して直線化され、同時期に現在の奈良橋交差点ができたことで[[東大和市立第一小学校]]北側の左に折れる道が旧道となった<ref>{{Cite book Sfn|和書 |editor=東大和市編さん委員会 |year=1999 |title=東大和市史資料編9 道と地名と人のくらし |publisher=東大和市 |page=24 |refp=harv}}</ref>
: 大正から昭和初めにかけて、現在の郷土博物館入り口交差点から西に、村山橋を越えた先の交差点までの道路が新規に作られ、郷土博物館入り口交差点から南に10メートルに位置する交差点から西方が旧道となった{{Sfn|東大和市編さん委員会|1999|p=24}}。
: [[1932年]](昭和7年)から[[1933年]](昭和8年)頃、4.5メートル程であった道路の拡幅および直線化工事が行われ、東大和市役所入り口のバス停付近の弓形の道路が旧道となった{{Sfn|東大和市編さん委員会|1999|p=23}}。
91 ⟶ 103行目:
== 往来 ==
; 江戸
: 青梅街道は道程で甲州街道より二[[里 (尺貫法)|里]]短く、[[関所]]がないため庶民の旅客にも多く利用された<ref>ただし[[塩山市|塩山]]近くに萩原口留[[番所]]があり、実質的には小規模な関所が存在した。</ref>。
; 明治
: 明治時代の初めごろまで大菩薩峠は現在の峠より少し北にあり、その道程は厳しく道幅は狭く、荷を積んだ[[馬]]が通れないため人が背負って運び、また風雪も激しく[[遭難]]者も出たほどの難所であった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=122}}。それでも物資輸送上の必要から、難所であっても大菩薩峠の人の往来は盛んであったといわれる{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=123}}。
: [[1869年]]([[明治]]2年)には新宿と[[田無市|田無]]間に[[乗合馬車]]が開通し、青梅街道は[[多摩地域]]と都心を繋ぐ生活道路としても定着していく。
; 大正
99 ⟶ 111行目:
; 昭和以降
: 青梅街道の地下に[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]荻窪線(現・[[東京地下鉄]][[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]])が[[1962年]][[1月23日]]に[[荻窪駅]]まで開通した。それに伴い、[[1963年]](昭和38年)に都電杉並線は廃止された。
: 萩原口留番所の跡地には、番所の門を復元した[[甲州市]]立の温泉保養施設「大菩薩の湯」<ref>{{Cite web|和書|title=交流保養センター・大菩薩の湯|url=https://www.city.koshu.yamanashi.jp/shisei/shisetsu/detail/%E4%BA%A4%E6%B5%81%E4%BF%9D%E9%A4%8A%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E6%B9%AF|website=甲州市|accessdate=2020-06-02|publisher=}}</ref>がある。
: [[山梨交通]]の「大菩薩峠登山口」バス停留所にある番屋茶屋は、元は萩原口留番所近くの[[茶屋]]であったが、バス路線開設により現在地に移転された。
: 大菩薩峠は、5月第4日曜日に「大菩薩峠を歩く会」、8月中旬には「大菩薩峠登山競走大会」が催される人気の[[ハイキング]]コースとなっている。
107 ⟶ 119行目:
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |authoreditor=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01東京都教育庁生涯学習部文化課 |title=青梅街路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]]東京都教育庁生涯学習部文化課 |series=KAWADE夢文庫歴史の道調査報告書 第三集 |isbndate=41995-309-49566-403 |ncid=BN12620380 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=中西慶爾 |title=青梅街道 |publisher=木耳社 |date=1982-01 |id={{JP番号|82015735}} |ref={{SfnRef|中西|1982}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=東大和市編さん委員会 |title=東大和市史資料編 |volume=9(道と地名と人のくらし) |publisher=東大和市 |date=1999-03 |id={{JP番号|99100262}} |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=山本和加子 |title=青梅街道 江戸繁栄をささえた道 |publisher=聚海書林 |year=1984-12 |isbn=4-915521-25-7 |ref={{SfnRef|山本|1984}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=ロム・インターナショナル |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫 |date=2005-02-01 |isbn=4-309-49566-4 |ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
121 ⟶ 137行目:
 
== 外部リンク ==
* [{{Wayback |url=http://www.city.nerima.tokyo.jp/jo_kokai/memory/f40.html |title=吉祥寺通りとの交差点の様子(1956年)] |date=20100111082649}} - 練馬区役所
 
{{Road-stub}}
{{甲斐九筋}}
{{History of transportation-stub}}
{{甲斐九筋}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:おうめかいとう}}