「イランのユダヤ人」の版間の差分

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紀元前537年に[[アケメネス朝]]の王[[キュロス2世]](クロス)が新バビロニアを倒した後、バビロンのユダヤ人を初めとする捕囚は解放され、祖国への帰還を許された。このとき42,462人のユダヤ人がペルシア領となったイスラエルの地に帰還し、[[サマリア]]地方にサトラップ(総督)が置かれた。
 
[[ダレイオス1世]](ダリヨス)の統治下での[[紀元前515年]]、[[ハガイ]]と[[ゼカリヤ (預言者)|ゼカリヤ]]の予言を受けた[[ゼルバベル]]の指揮の下でユダヤ人たちは王の協力を得てエルサレムで第2神殿を建設した。その後ユダヤ総督に命じられた[[ネヘミヤ]]がエルサレムに帰還、街の城壁の修復を行った。[[紀元前458年]]に預言者[[エズラ]]の指導のもとで2度目の集団帰還が行われた。<ref>旧約聖書[[エズラ記]]、[[ネヘミヤ記]]より</ref>
 
====エステル====
アハシュエロス王(実在の王[[クセルクセス1世]]とされる。在位[[紀元前485年]] - [[紀元前465年]])の統治下、ユダヤ人[[モルデカイ]]の養女[[エステル (聖書)|エステル]]は王妃[[ワシュティ]]に代わる王の新しい妃となった。
 
その後大臣[[ハマン]]に対する敬礼をモルデカイが拒否したため、怒ったハマンは彼とエステルを含むユダヤ人を籤(プル、Pul)で決めた[[ユダヤ暦]]第12月(アダル月とも。[[グレゴリオ暦]]では[[2月]]から[[3月]]の間)の13日に虐殺することにした。このときエステルはアハシュエロスにハマンの策略を暴露すると同時に自らの出自を明かし、王はハマンを処刑してユダヤ人の命を救い、モルデカイを昇進させた。後世のユダヤ人は彼女の功績を称え、アダル月14日と15日を[[プーリーム]]の祭りと定めた。<ref>旧約聖書[[エステル記]]より。なおエステルとモルデカイが実在したかどうかについては不明であるが、イラン西部の[[ハマダーン]]には2人の墓とされる廟がある。</ref>
 
<ref>旧約聖書[[エステル記]]より。なおエステルとモルデカイが実在したかどうかについては不明であるが、イラン西部の[[ハマダーン]]には2人の墓とされる廟がある。</ref>
 
===ヘレニズム時代===
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紀元前166年に[[ユダ・マカバイ]]の率いるシリアへの反乱によりユダヤ人は独立、[[ハスモン朝]]が始まったが、その約30年後に[[アンティオコス7世]]によってユダヤ人は再びシリアに隷属することとなる。[[紀元前129年]]にアンティオコスは[[パルティア]]を侵略するも敗れ戦死、ここにユダヤ人国家は復活するが、シリアによる征服の頃からパルティアにいたハスモン朝の王[[ヨハネ・ヒルカノス1世]]は、現地の君主と密約を交わしていたのだった。
 
セレウコス朝滅亡後、[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]率いるローマ軍はイスラエルに侵略、当時の王であった[[アリストブロス2世]]を捕らえてローマに連行、兄の[[ヒルカノス2世]]を傀儡政権の君主に仕立て上げた。ところがヒルカノスは[[紀元前40年]]、パルティアの支援を受けた弟の遺児である[[アンティゴノス (ハスモン朝)|アンティゴノス]]によって捕らえられ、退位させられた。ここでパルティア領[[バビロン]]に住んでいたユダヤ人は追放されたヒルカノスを祭司の座に就かせようと考えたが、逆に当時のバビロンで内紛が起こりユダヤ人司祭がイスラエルに帰還するという出来事が起こった。
 
===パルティア===
アルサケス朝パルティアは広大なイラン一帯に広大な領域を支配したにもかかわらず、政治的には領内の属国・属王を[[アルサケス氏]](中国名:安息)が統率するという地方分権のような様態を示しており、異民族に対しては総じて寛大であった。1世紀にはアルベラ(現イラク領[[アルビール]])に都を置いた属国[[アディアネ王国]]の指導者層がユダヤ教に改宗し、エルサレム神殿の建設に資金を提供したという記録が残っている。
 
[[アレクサンドリア]]のユダヤ人共同体([[ディアスポラ]]で哲学者[[アレクサンドリアのフィロン|フィロン]]は、当時パルティア領であったバビロニアにはおびただしい数のユダヤ人が暮らしていたと書き残している。ローマとイスラエルによる[[ユダヤ戦争]]の最中、さらに[[70年]]のエルサレム陥落の際には多くのユダヤ人が東方へ亡命してきた。以降バビロンのユダヤ人はローマと対立するパルティアを支援し続け、当地の君主もユダヤ人の長に'''レシュ・ガルタ'''(アラム語:{{lang|he|ריש גלותא}}、ローマ字転写:Resh Galuta。流浪の民の長)という称号を授けた。
 
ユダヤの学者たちは[[3世紀]]前期にパルティア領スラ、[[ネハルデア]]、[[プンベディタ]]の学院で[[タルムード]]を編纂した。しかしパルティアが崩壊した後、中央集権的で[[ゾロアスター教]]を熱心に奉じる[[サーサーン朝]]によりスラの学院は[[259年]]に閉鎖、取り壊されることとなる。
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初期のイルハン朝は領土が広く被征服民の宗教・人種・民族性も多様であったことから、既にその土地に根付いていたイスラーム教徒のみならず、[[ネストリウス派]]キリスト教(景教)信徒やユダヤ教徒に対しても寛容であった。実際にフレグの子[[アバカ]]も景教徒であったし、その子[[アルグン]]はユダヤ人の[[サアド・アッ=ダウラー]]を[[宰相]]に起用している。
 
しかしアルグンの死後に起こった内紛の後、[[1295年]]に息子の[[ガザン]]が王位に就くと、イランのイスラーム化が始まると同時に異教徒に対する弾圧や人頭税の徴収も再開され、教会や[[シナゴーグ]]、仏教寺院など異教の宗教施設は破壊された。これは弟[[オルジェイトゥ]]の代になっても続けられ、同時期にユダヤ人医師[[ラシードゥッディーン]]を含む多くのユダヤ人がイスラームへ改宗した
 
=== サファヴィー朝・アフシャール朝・カジャール朝 ===
モンゴルに取って代わって成立した[[サファヴィー朝]]では[[シーア派]]が国教とされ、ユダヤ人を始めとした非イスラム教徒は差別的な扱いを受けた。穢らわしい存在として行動を制限された他、ユダヤ人であることを示すワッペンの着用も強制された。[[ナーディル・シャー]]によってシーア派の聖地である[[マシュハド]]へのユダヤ人居住が認められたものの、シャーの殺害から[[ポグロム]]が起き多数のユダヤ人が犠牲になったばかりか生き残った者も強制的にイスラームに改宗させられた。しかしマシュハドの改宗者は表面的にイスラームとして振る舞いながらも密かにユダヤ教徒としてのを守り続け、1946年に[[イスラエル]]に移住して今日に至るまでまとまったコミュニティを形成している。
 
=== イラン・イスラーム体制 ===
イラン・イスラーム体制下でもユダヤ人コミュニティは存在しており、ユダヤ人の国会議員がいる<ref>{{Cite news|url=https://www.presstv.ir/Detail/2024/05/25/726209/Iran-Jewish-representative-Parliament-Ebrahim-Raeisi-government-relationship-Jewish-community-positive-constructive?ht-comment-id=14853644|title=Raeisi’s govt. relationship with Jewish community in Iran ‘constructive, positive’: Jewish MP|work=Press TV|date=2024-5-25|accessdate=2024-8-11}}</ref>。
 
==主なイランのユダヤ人==
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====アメリカ合衆国====
*[[ジミー・デルシャド]](政治家。[[カリフォルニア州]][[ビバリーヒルズ]]市元市長)
*[[アイザック・ラリアン]](実業家、{{仮リンク|MGAエンターテインメント|en|MGA Entertainment}}社[[CEO]]。子供向け[[着せ替え人形]][[ブラッツ]]の発案者)
*[[ボブ・ヤーリ]](映画プロデューサー)
*[[ショーン・トーブ]](映画俳優。「[[クラッシュ (2004年の映画)|クラッシュ]]」)
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==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
 
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*[[ジーディ]]
 
{{アジアの題材|ユダヤ人|mode=3}}
{{ユダヤ人}}
{{DEFAULTSORT:いらんのゆたやしん}}
[[Category:イランのユダヤ人・ユダヤ教|*]]
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