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{{中華圏の人物
'''許 世英'''(きょ せいえい、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|许世英}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|許世英}}'''、[[ピン音|ピンイン]]:{{lang|zh|Xǔ Shìyīng}}、[[1873年]][[9月10日]] - [[1964年]][[10月13日]])は、[[中国]]の[[清]]代末期から[[中華民国]]時代にかけての政治家。字は'''俊人'''、'''静仁'''。[[安徽省]]秋浦県(現在の[[池州市]][[東至県]])の人。[[北京政府]]、[[国民政府]]の政治家で、北京政府では一時は[[国務総理|国務院総理]]も務めたことがある。
[[zh:| 名前=許世英]]
| 画像=[[File:Bundesarchiv Bild 102-12299, Hsu Shih-Ying.jpg|180px]]
| 画像の説明=
| 出生=[[1873年]][[9月10日]]<br/>([[清]][[同治]]12年7月19日)
| 死去=[[1964年]]([[民国紀元|民国]]53年)[[10月13日]]<br/>{{CHN1928}}[[台北市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[安徽省]][[池州市|池州府]][[東至県|建徳県]]
| 職業=政治家・外交官
| 簡体字={{lang|zh-hans|许世英}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|許世英}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Xǔ Shìyīng}}
| 通用=
| 注音=
| 注音二式=
| 和名=きょ せいえい
| 発音=シュー シーイン
| ラテン字=Hsü Shih-ying
|}}
 
'''許 世英'''(きょ せいえい)は、[[清|清末]]、[[中華民国]]の政治家・外交官。[[北京政府]]では[[安徽派]]に属し、一時は[[国務総理|国務院総理]]もつとめたことがある。[[国民政府]]では駐日大使となった。[[字]]は'''俊人'''、'''静仁'''。
== 事跡 ==
 
== 事 ==
=== 清末の事跡 ===
比較的富裕な地主の家に生まれる。[[光緒1891年]]17年([[1891年光緒]]17年)に[[秀才 (科挙)|秀才]]となったが、[[郷試]]には2度落第した。光緒23年([[1897年]](光緒23年)に[[貢生|抜貢]](地方の優秀な生徒を選抜して京師に派遣すること)に選ばれ、同年の[[礼部]]における官吏登用試験に首席合格した。翌光緒24([[1898年]])、[[刑部]][[広西チワン族自治区|広西]]司副主稿、主稿を歴任し、さらに[[直隷省|直隷]]司主稿に遷ったとなる。以後も、[[四川省]]などでも官職を歴任し、光緒28年([[1902年]](光緒28年)に刑部六品主事に昇進した。
 
光緒31年([[1905年]](光緒31年)10月、清朝が巡警部門を新設すると、北京外城巡警総庁庁丞[[朱啓ケン|朱啓鈐]]の推薦により、許世英は同庁行政処検事に就任した。光緒32年([[1906年]](光緒32年)の年末審査により、京察一等の評価を受け、四品任用の資格を得た。光緒33年([[1907年]](光緒33年)4月、[[東三省総督]][[徐世昌]]に任用され、東三省での司法機構創設の準備に従事し、する。光緒34([[1908年]])に[[奉天省|奉天]]高等審判庁庁丞に任命された。この時、日本駐奉天領事[[広田弘毅]]、副領事[[有田八郎]]と知り合っている。
 
[[宣統1910年]]2年([[1910年宣統]]2年)春、許世英は[[徐謙]]らとともに、司法と監獄の実情視察のため欧州各国を視察した。帰国後の宣統3年([[1911年]](宣統3年)11月、[[山西省|山西]][[承宣布政使|布政使]]に任じられたが、まもなく[[袁世凱]]を支持して、山西[[巡撫]][[張錫鑾]]とともに[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]退位を求める文書に名を列ねた。
 
=== 安徽派に属す ===
[[中華1912年]]([[民国紀元|民国]]1([[1912年]])5月、張錫鑾の推薦を受けた許世英は、袁世凱により[[大理院]]院長に任命された。[[陸徴祥]]内閣、[[趙秉鈞]]内閣、[[段祺瑞]]臨時内閣]]においては、司法総長をつとている。政党活動では、徐謙らと[[国民共進会]]を組織し、後に[[国民党 (宋教仁)|国民党]]に合流している。しかし、民国2年([[1913年]](民国2年)3月に[[宋教仁]]が暗殺されると、国民党員でありながらも許は司法総長として審理につき困難な立場に立たされ、革命派の[[黄興]]らから厳しく糾弾された。
 
民国2年10月、[[奉天省 (中華民国)|奉天省]]民政長に遷り、翌民国3年(異動する。[[1914年]](民国3年)春、約法審査員として中華民国約法の増補改正に関与した。同年5月、[[福建省 (中華民国)|福建]]民政長(後に巡按使と改称)に任命されたが、福建護軍使[[李厚基]]と不仲であったため、民国5年([[1916年]](民国5年)4月、辞任した。
 
袁世凱死後、許世英は、地縁から段祺瑞率いる[[安徽派]]の一員となる。民国5年6月、内務総長となり、翌7月には交通総長となった。しかし、[[府院の争い]]の中で、[[黎元洪]]から[[津浦鉄道]]を巡る収賄案件を糾弾され、民国6年([[1917年]](民国6年)5月に許は一時逮捕されてしまう。まもなく無罪となったが、交通総長は辞任せざるを得なかった。民国7年([[1918年]](民国7年)、中意銀行総裁に就任した。
 
=== 国務総理に就任 ===
民国10年([[1921年]](民国10年)9月、[[安徽省 (中華民国)|安徽]]省長に就任する。しかし民国12年([[1923年]](民国12年)に軍縮を図って安徽督理[[馬聯甲]]と衝突し、辞任に追い込まれた。同年2月から11月まで航空署督弁をつとめる。民国13年([[1924年]](民国13年)10月、段祺瑞の命により許は[[孫文]](孫中山)と対面し、[[直隷派]]討伐を図る。
 
その後、[[馮玉祥]]による[[北京政変]](首都革命)後にを経て、許世英は善後会議秘書長を務めとなった。民国13年12月以降、段祺瑞は臨時執政として国務会議を主宰し、国務院総理をしばらく置いていなかったが、民国14年([[1925年]](民国14年)12月26日、国務院総理の職が復活し、許が総理となった。内閣の組織では、許は[[中国国民党]]にも配慮する人事を行ったが、結局は国民党人士の支持を取り付けることができなかった。翌民国15([[1926年]])22月15日、許は総理を辞任した。5月に段も下野に追い込まれると、許は段に随従して[[上海市|上海]]に逃れた。
 
=== 国民政府での活動 ===
[[国民政府]]成立後の民国17年([[1928年]](民国17年)10月、許世英は賑務委員会委員長に起用され、全国で社会救済事業に取り組んだ。民国25年([[1936年]](民国25年)2月、駐日大使に任命され、翌民国26([[1937年]])99月の[[盧溝橋事件]](九一八事変)後は、日本との交渉を受け持った。ドイツの仲介を得ながら、許は日本側と交渉を続けたが、南京陥落などもあって不調に終わり、民国27年(る。[[1938年]](民国27年)1月20日に許は帰国した。
 
帰国後、許世英は国民政府の全国賑災委員会を主管し、再び社会救済事業に取組む。1938年(民国27年12)12月には、中央救済準備金保管委員会委員長に遷っ異動した。戦後の民国36年([[19471940年]])4(民国29年)1021日から25日かけて蔣介石が重慶で開催した外交対策会議に、許列席している<ref>『国際知識及び評論』20巻12号[[中華民昭和15年12月号、日本行政院|行政院]]際協会、118-119頁。</ref>。また重慶国民府にあっては、賑務委員兼蒙蔵会(後に賑済委員会委員長に就任している。翌年代理を務めた(当時辞任後委員長は[[香港]]に移住したが、民国39年([[1950年孔祥煕]])に[[台湾]]へ遷り<ref>東亜問題調査会(1941)[[中華民44頁。</ref><ref>『昭和十五年の総統府|総統府]]咨際情勢』日本外に任じられた協会、1942年、179頁。</ref>
 
[[日中戦争]](抗日戦争)後の[[1947年]](民国36年)4月には、[[中華民国行政院|行政院]]政務委員兼[[蒙蔵委員会]]委員長に就任している。翌年12月の辞任後は、いったん[[香港]]に移住した。[[1950年]](民国39年)に[[台湾]]に移り、[[中華民国総統府|総統府]]咨政に任じられた。
民国53年([[1964年]])10月13日、[[台北市|台北]]で病没。享年92(満91歳)。
 
民国53年([[1964年]](民国53年)10月13日、[[台北市|台北]]で病没。享年92(満91歳)。
 
== 注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">鄭則民「許世英」[[{{Cite book|和書|author=中国社会科学院]]近代史研究所|authorlink=中国社会科学院|title = 民国人物伝 第7巻|year = 1993|publisher = [[中華書局]]、1993年|isbn = 7-101-01052-0}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = [[中華書局、1995年]]|isbn = 7-101-01320-1}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author =東亜問題調査会編|title = 最新支那要人伝|year = 1941|publisher = [[朝日新聞社]]|isbn = }}</span>
 
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
{{先代次代|[[中華民国]][[内閣総理|国務院総理]]|[[1925年]]12月 - [[1926年]]2月|[[黄郛]]|[[賈徳耀]]}}
|-
! {{CHN1912}}(北京政府)
{{先代次代|大理院長|<small>[[1912年]]5月 - 7月</small>|(創設)|[[章宗祥]]}}
{{先代次代|司法総長|<small>[[1912年]]7月 - [[1913年]]9月</small>|[[王式通]]|[[汪守珍]]}}
{{先代次代|内務総長|<small>[[1916年]]6月 - 7月</small>|[[王揖唐]]|[[孫洪伊]]}}
{{先代次代|交通総長|<small>[[1916年]]7月 - [[1917年]]5月</small>|[[汪大燮]]|[[権量]]}}
{{先代次代|司法総長(署理)|<small>[[1922年]]11月 - [[1923年]]1月</small>|[[徐謙]]|[[王正廷]]}}
{{先代次代|[[中華民国]][[内閣総理|国務総理]]|<small>[[1925年]]12月 - [[1926年]]2月</small>|[[黄郛]]|[[賈徳耀]]}}
|-
! {{CHN1928}}([[国民政府]])
{{先代次代|[[蒙蔵委員会]]委員長|<small>[[1947年]]4月 - [[1948年]]12月</small>|[[羅良鑑]]|[[白雲梯]]}}
|}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きよ せいえい}}
[[Category:中華民国の人物 き|よ せいえい]]
[[Category:中華民国の首相]]
[[Category:駐日中華民国の外交官大使]]
[[Category:安徽省出身北京政府人物政治家]]
[[Category:安徽派中国の警察官]]
[[Category:盧溝橋事件の人物]]
[[Category:安徽派の人物]]
[[Category:国民党 (宋教仁) の人物]]
[[Category:辛亥革命の人物]]
[[Category:池州出身の人物]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1936年没]]
 
[[zh:許世英]]