「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の版間の差分

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{{Infobox 芸術家
| bgcolour = #EEDD82
| name = カラヴァッジョ<br >Caravaggio
| image = Bild-Ottavio Leoni, Caravaggio.jpg
| imagesize = 200px
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| birth_name = ミケランジェロ・メリージ
| birth_date = [[1571年]][[9月29日]]
| birth_place = {{ESP1506}}・[[File:Flag of Milan.svg|25px]] [[ミラノ公国]][[ミラノ]]
| death_date = [[1610{{死亡]][[718]]と没年齢|1571|9|29|1610|7|18}}?
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| field = [[絵画]]
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カラヴァッジョは[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の弟子だった師匠のもと、[[ミラノ]]で画家の修行を積んだ。その後、ミラノから[[ローマ]]へと移っているが、当時のローマは大規模な[[教会]]や[[パラッツォ|邸宅]]が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。[[対抗宗教改革]]のさなか、ローマカトリック教会は[[プロテスタント]]への対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、[[盛期ルネサンス]]以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていた[[マニエリスム]]は、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『'''聖マタイの殉教'''』と『'''[[聖マタイの召命]]'''』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在では[[テネブリズム]]とも呼ばれる、強烈な明暗法の[[キアロスクーロ]]の技法が使用されている。
 
カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足や[[パトロン]]の欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった<ref>[http://www.artinfo.com/news/story/37059/caravaggios-rap-sheet-reveals-him-to-have-been-a-lawless-sword-obsessed-wildman-and-a-terrible-renter/ Caravaggio's Rap Sheet Reveals Him to have been a Lawless, Sword-Obsessed Wildman, and a Terrible Renter] ARTINFO.com</ref>。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった<ref>Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用は[[カレル・ヴァン・マンデル]]の『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、1594年10月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は1597年7月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)。</ref>」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。さらに1608年に[[マルタ]]で、1609年には[[ナポリ]]で乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、[[トスカーナ州]][[モンテ・アルジェンターリオ]]にて38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。
 
存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[ホセ・デ・リベーラ]]、[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ|ベルニーニ]]そして[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]らバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けられる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「[[テネブリズム|テネブリスト]]」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人[[ポール・ヴァレリー]]の秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している<ref>Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.</ref>。
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== 生涯 ==
=== 前半生(1571年 - 1592年)===
カラヴァッジョは1571年に[[ミラノ]]で三人兄弟の長男として生まれた<ref>[http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte Biography of Caravaggio] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090416123558/http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte |date=2009年4月16日 }}</ref><ref>Confirmed by the finding of the baptism certificate from the Milanese parish of Santo Stefano in Brolo: [http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte Rai International Online] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090416123558/http://www.italica.rai.it/index.php?categoria=bio&scheda=caravaggio_prima_parte |date=2009年4月16日 }}. 以前はその姓から、[[カラヴァッジョ (ベルガモ県)|カラヴァッジョ]]村で生まれたと考えられていた。</ref>。父フェルモ・メリージは、[[ベルガモ]]近郊にあるカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当で、母ルチア・アレトーリは、同地方の[[地主]]階級の娘だった。[[1576年]]には[[ペスト]]で荒廃したミラノを離れ、一家で[[カラヴァッジョ (ベルガモ県)|カラヴァッジョ村]]へと移住したが、その翌年の1577年には父フェルモと祖父が死去している。カラヴァッジョは幼年期をこの村で送ったと考えられておりいるが、カラヴァッジョの家族は[[スフォルツァ家]]およびそれと姻族関係にある[[コロンナ家]]といった当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。カラヴァッジョはスフォルツァ家、コロンナ家と強い関係を維持し保ちこのことそれ後にカラヴァッジョの後半生に大きおいて重要な役割を果たすことになる。
 
カラヴァッジョの母も1584年に死去し、この年からカラヴァッジョは[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]の弟子だったという記録が残っているミラノの画家[[シモーネ・ペテルツァーノ]] (Simone Peterzano) のもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョは徒弟の年季が終了した後もミラノ近辺に在住していたが、[[ヴェネツィア]]を訪れて、後年[[フェデリコ・ツッカリ]]がカラヴァッジョの絵画はこの画家の作品を真似ただけだと非難した[[ジョルジョーネ]]<ref>Harris, p. 21.</ref>やティツィアーノらの絵画を目にした可能性はある。カラヴァッジョは[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』などミラノに保管されていた貴重な作品や、ロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの[[自然主義]]絵画様式に傾倒していった<ref>Rosa Giorgi, "Caravaggio: Master of light and dark – his life in paintings", p.12.</ref>。
 
=== ローマ時代前期(1592年 - 1600年)===
[[File:CaravaggioBoy -with Fanciulloa conBasket canestroof diFruit-Caravaggio frutta(1593).jpg|thumb|『[[果物籠を持つ少年]]』(1593年 - 1594年){{convert|67|x|53|cm|0|lk=out|abbr=on}}<br /> [[ボルゲーゼ美術館]]([[ローマ]])]]
1592年半ばにカラヴァッジョは「おそらく喧嘩」で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し「着の身着のままで…行く宛ても食料もなく…ほとんど無一文の状態で」ローマへと逃げ込んだ<ref>Quoted without attribution in Robb, p.35. おそらく一次資料であるマンチーニ、バリオーネ、ベッローリの各著作からの引用で、どの著作もカラヴァッジョのローマ時代初期がひどい貧困状態だったことを記載している。</ref> 。その数ヵ月後カラヴァッジョは、ローマ教皇[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]のお気に入りの画家だった[[ジュゼッペ・チェーザリ]] (Giuseppe Cesari) の工房で助手を務め、「花と果物の絵画」で画家としての技量を知られるようになる<ref>Giovanni Pietro Bellori, ''Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni'', 1672:「ミケーレ(カラヴァッジョ)は金銭的理由からジュゼッペ・ダプリーノ(チェーザリ)のもとで働いた。花と果物を描く助手として雇われ、現在に至るまで愛される美しい写実的な作品を残した」</ref>。このころのカラヴァッジョの作品として知られているのは『'''果物の皮を剥く少年''' ([[:en:Boy Peeling Fruit (Caravaggio)|Boy Peeling Fruit]])』(ロンギ財団所蔵、1592年ごろ)、『'''[[果物籠を持つ少年]]''' ([[:en:Boy with a Basket of Fruit (Caravaggio)|Boy with a Basket of Fruit]])』([[ボルゲーゼ美術館]]所蔵、1593年 - 1594年)、『'''[[病めるバッカス]]''' ([[:en:Young Sick Bacchus (Caravaggio)|Young Sick Bacchus]])』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年ごろ)などがある。『病めるバッカス』は自画像ではないかと言われており、ひどい病気に罹患してチェーザリの工房から解雇された後の回復しつつある自分自身を描いたとされている。これら3点の絵画は精密な写実的表現で描かれており、カラヴァッジョの画家としての名声を高めることになった。『果物籠を持つ少年』に描かれた果物は園芸の専門家によればそれぞれの種類を言い当てることが可能で、例えば籠の右下に垂れ下がっているのは「菌類による病変に侵されて斑に枯れた大きなイチジクの葉」である<ref>[http://www.hort.purdue.edu/newcrop/caravaggio/caravaggio_l.html Caravaggio's Fruit: A Mirror on Baroque Horticulture (Jules Janick, Department of Horticulture and Landscape Architecture, Purdue University, West Lafayette, Indiana)]</ref>。
 
[[File:Canestra di frutta (Caravaggio).jpg|thumb|left|『果物籠』(1595年 - 1596年頃)<br />アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)]]
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[[File:The Cardsharps.jpg|thumb|『[[トランプ詐欺師]]』(1594年頃)<br />[[キンベル美術館]]([[フォートワース]])]]
『'''[[トランプ詐欺師]]''' ([[:en:Cardsharps|The Cardsharps]])』([[キンベル美術館]]所蔵、1594年ごろ)は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては『女占い師』と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。『女占い師』と同じく後世になって人気が出た題材で、50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた[[枢機卿]][[フランチェスコ・マリア・デル・モンテ]]に認められ、[[パトロン|後援]]を受けることに成功した。そして、デル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。『'''[[奏楽者たち (カラヴァッジョ)|奏楽者たち]]''' ([[:en:The Musicians (Caravaggio)|The Musicians)]]』([[メトロポリタン美術館]]所蔵、1595年 - 1596年)、『'''リュートを弾く若者''' ([[:en:The Lute Player (Caravaggio)|The Lute Player]])』(ウィルデンスタイン・コレクション所蔵、1596年ごろ、バドミントン・ハウス所蔵、1596年ごろ、[[エルミタージュ美術館]]所蔵、1600年ごろの3点のヴァージョンが現存)、『'''[[バッカス (カラヴァッジョ)|バッカス]]''' ([[:en:Bacchus (Caravaggio)|Bacchus]])』(ウフィツィ美術館所蔵、1595年ごろ)や、寓意に満ちているが写実的な『'''[[トカゲに噛まれた少年]]''' ([[:en:Boy Bitten by a Lizard (Caravaggio)|Boy Bitten by a Lizard]])』([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]所蔵、1593年 - 1594年とロベルト・ロンギ財団所蔵、1594年 - 1596年の2点のヴァージョンが現存)などである。これらの作品にモデルとなって描かれているのはミンニーティのほか、数人の青少年である。
 
[[File:Michelangelo Caravaggio 063.jpg|thumb|left|『[[するマグダラのマリア (カラヴァッジョ)|悔悛するマグダラのマリア]]』(1594年 - 1595年頃)<br />ドリア・パンフィリ美術館([[ローマ]])]]
カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として『'''[[するマグダラのマリア''' ([[:en:Penitent Magdalene (Caravaggioカラヴァッジョ)|Penitent Magdalene悔悛するマグダラのマリア]])'''』([[リア・パンフィリ美術館]]所蔵、1594年 - 1595年ごろ)があり、描かれている[[マグダラのマリア]]はそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない…濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み…良心の呵責に苛まれ…救済を求めているのだろうか<ref>Robb, p.79. Robb はその著作でベッローリも引き合いに出している。ベッローリはカラヴァッジョの豊かな色彩感覚は賞賛していたが、その自然主義には批判的だった。「カラヴァッジョは自然をそのままに描くことで満足し、それ以上のことに頭を使おうとはしていない」</ref>」
 
[[File:Caravaggio Judith Beheading Holofernes.jpg|thumb|right|『[[ホロフェルネスの首を斬るユーディット (カラヴァッジョ)|ホロフェルネスの首を斬るユーディット]]』(1598年 - 1599年)<br />[[パラッツォ・バルベリーニ|国立古典絵画館]](ローマ)]]
この作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『'''[[アレクサンドリアの聖カタリナ (カラヴァッジョ)|アレクサンドリアの聖カタリナ]]''' ([[:en:Saint Catherine (Caravaggio)|Saint Catherine]])』([[ティッセン=ボルネミッサ美術館]]所蔵、1598年ごろ)、『'''[[とマグダラのマリア''' ([[:en:Martha and Mary Magdalene (Caravaggioカラヴァッジョ)|Martha and Mary Magdaleneマルタとマグダラのマリア]])'''』([[デトロイト美術館]]所蔵、1598年ごろ)、『'''[[ホロフェルネスの首を斬るユーディット (カラヴァッジョ)|ホロフェルネスの首を斬るユーディット]]''' ([[:en:Judith Beheading Holofernes (Caravaggio)|Judith Beheading Holofernes]])』([[バルベリーニ宮|ローマ国立古典絵画館所蔵]]、1598年 - 1599年)、『'''イサクの犠牲''' ([[:en:Sacrifice of Isaac (Caravaggio)|Sacrifice of Isaac]])』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『'''法悦の聖フランチェスコの法悦''' ([[:en:Saint Francis of Assisi in Ecstasy (Caravaggio)|Saint Francis of Assisi in Ecstasy]])』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『'''エジプトへの逃避途上の休息''' ([[:en:Rest on the Flight into Egypt (Caravaggio)|Rest on the Flight into Egypt]])』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。
 
極端なまでの写実主義と自然主義の作品によって、現代のカラヴァッジョの評価はゆるぎないものになっている。カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出した。このことはカラヴァッジョが非常に高い絵画技術を有していたことを示している。[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]のような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時において、カラヴァッジョの作風は大きな反響を呼んだ。この時期のカラヴァッジョの作品は写実主義だけが最大の特徴というわけではなく、当時の中央イタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。カラヴァッジョは対象をそのまま油彩画へと描きだした、ヴェネツィア風の半身肖像画や静物画を特に好んでいた。このような作風がもっともよく表れている当時の作品に『'''[[エマオの晩餐 (カラヴァッジョ、ロンドン)|エマオの晩餐]]''' ([[:en:Supper at Emmaus (Caravaggio, London version)|Supper at Emmaus]])』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1601年)があげられる。
 
==== ギャラリー ====
<gallery style="font-size:smaller">>
ファイル:CARAVAGGIO, A boy peeling fruit (1593).jpg|『果物の皮を剥く少年』(1592年頃)<br />ロンギ財団(ローマ)
ファイル:Self-portrait as the Sick Bacchus by Caravaggio.jpg|『[[病めるバッカス]]』(1593年頃)<br />ボルゲーゼ美術館所蔵(ローマ)
ファイル:Caravaggio - I Musici.jpg|『[[奏楽者たち (カラヴァッジョ)|奏楽者たち]]』(1595年 - 1596年)<br />メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
ファイル:The Fortune Teller1.jpg|『女占い師』(1594年頃)<br />カピトリーノ美術館(ローマ)
ファイル:La Diseuse de bonne aventure, Caravaggio (Louvre INV 55) 02.jpg|『女占い師』(1595年頃)<br />ルーブル美術館(パリ)
ファイル:1596 Caravaggio, The Lute Player New York.jpg|『リュートを弾く若者』(1596年頃)<br />ウィルデンスタイン・コレクション
ファイル:Caravaggioapollo.jpg|『リュートを弾く若者』(1596年頃)<br />バドミントン・ハウス(グロスタシャー)
ファイル:Michelangelo Caravaggio 020.jpg|『リュートを弾く若者』(1600年頃)<br />エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)
ファイル:Baco, por Caravaggio.jpg|『[[バッカス (カラヴァッジョ)|バッカス]]』(1595年頃)<br />ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
ファイル:Michelangelo Caravaggio 061.jpg|『[[トカゲに噛まれた少年]]』(1593年 - 1594年頃)<br />ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
ファイル:Caravaggio - Boy Bitten by a Lizard.jpg|『[[トカゲに噛まれた少年]]』(1594年 - 1596年頃)<br />ロベルト・ロンギ財団(フィレンツェ)
ファイル:Michelangelo Caravaggio 060.jpg|『[[アレクサンドリアの聖カタリナ (カラヴァッジョ)|アレクサンドリアの聖カタリナ]]』(1598年頃)<br />ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリード)
ファイル:Caravaggio Martha&Mary.jpg|『[[マルタとマグダラのマリア (カラヴァッジョ)|マルタとマグダラのマリア]]』(1598年頃)<br />デトロイト美術館(デトロイト)
ファイル:Michelangelo Merisi da Caravaggio - The Sacrifice of Isaac - WGA04202.jpg|『イサクの犠牲』(1598年頃)<br />ピエセッカ・ジョンソン・コレクション(ニュージャージー、プリンストン)
ファイル:St Francis in Ecstasy.jpg|『法悦の聖フランチェスコ』(1595年頃)<br />ワーズワース美術館(ハートフォード、コネチカット)
ファイル:Michelangelo Caravaggio 025.jpg|『エジプトへの逃避途上の休息』(1597年頃)<br />ドリア・パンフィリ美術館(ローマ)
ファイル:Jupiter,_Neptune_and_Pluto-Caravaggio_(c.1597-1600).jpg|『[[ユピテル、ネプトゥヌスとプルート]]』(1597年頃)<br />ヴィッラ・ルドヴィーシ(ローマ)
ファイル:David and Goliath-Caravaggio (c.1610).jpg|『[[ダヴィデとゴリアテ (カラヴァッジョ)|ダヴィデとゴリアテ]]』(1599年頃)<br />プラド美術館(マドリード)
</gallery>
 
=== ローマ時代後期 - ローマでもっとも有名な画家(1600年 - 1606年) ===
[[File:CaravaggioThe -Calling Laof vocazioneSaint diMatthew-Caravaggo San Matteo(1599-1600).jpg|thumb|『[[聖マタイの召命]]』(1599年 - 1600年)<br />[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会]]コンタレッリ礼拝堂(ローマ)]]
1599年におそらく枢機卿デル・モンテの推薦で、カラヴァッジョは[[サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会]]コンタレッリ礼拝堂の室内装飾の依頼を受けた。契約では2点の絵画を制作するとなっており、このときに描かれたのが『'''聖マタイの殉教''' ([[:en:The Martyrdom of Saint Matthew (Caravaggio)|Martyrdom of Saint Matthew]])』と『'''[[聖マタイの召命]]'''』である。1600年に完成したこれらの絵画は、たちまちのうちに大評判となった。カラヴァッジョはこの絵画で[[キアロスクーロ]]よりもさらに強い明暗法の[[テネブリズム]]を使用し、このことが画面に高い劇的な効果を与え、カラヴァッジョの作品が持つ鋭い写実性に激しい感情表現を加えることになった。当時の画家たちの間ではカラヴァッジョに対する評価は両極端に分かれている。絵画技法上、様々な間違いを犯していると公然と非難するものもいたが、カラヴァッジョを新しい絵画技法の先駆者であると支持するものが多かった。「当時ローマに居た画家たちは、カラヴァッジョの作品が持つ革新性に驚愕した。とくに若い画家たちはカラヴァッジョに共感し、実物をありのままに描くことが出来る比類ない画家であると賞賛して、その作品はほとんど奇跡だとまで考えていた<ref>Bellori. さらに「これら若い画家たちはいかにうまくカラヴァッジョの作品を模倣できるかを競い合い、衣服を脱がせたモデルに強い光をあてて絵画を描いた。それはカラヴァッジョの作品を研究、解析するというよりも、手軽にカラヴァッジョの作品を模写しているにすぎなかった」と続く。</ref>」
 
[[File:Caravaggio - Taking of Christ - Dublin.jpg|thumb|left|『[[キリストの捕縛 (カラヴァッジョ)|キリストの捕縛]]』1602年頃)<br />[[アイルランド国立美術館]](ダブリン)]]
カラヴァッジョには有力者たちから大量の絵画制作の依頼が舞い込むようになった。とくに暴力的な表現を伴う宗教画の依頼が多く、グロテスクな断首、拷問、死などが主題となっていた。カラヴァッジョが描いたこのような宗教画のなかでも、もっとも優れた作品といわれているのがイタリア貴族マッテイ家 ([[:en:House of Mattei|House of Mattei]]) からの依頼で描かれた『[[キリストの捕縛 (カラヴァッジョ)|'''キリストの捕縛''']] ([[:en:The Taking of Christ (Caravaggio)|The Taking of Christ]])』([[アイルランド国立美術館]]所蔵、1602年ごろ)である。200年以上にわたって失われた絵画だとされていたが、1990年になって[[ダブリン]]のイエズス会教会で再発見された作品である。次々と描きあげる絵画によってカラヴァッジョの名声は高まる一方だったが、ときには依頼主に受け取りを拒否されることもあり、描き直すかあるいは別の購入者を探すことになった作品もあった。カラヴァッジョの描く強い明暗法で表現された劇的な作品は高く評価されていたが、逆に通俗的で下品な絵画であるとして忌避されることもあった<ref>対抗宗教改革下における教会の芸術に対する礼儀思想によるものだった (Giorgi, p.80 and Gash, p.8ff)。『聖マタイと天使』『聖母の死』が受け取りを拒否された詳細な経緯については Puglisi, pp.179–188. を参照。</ref>。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の依頼でコンタレッリ礼拝堂のために描かれた、みすぼらしい小作人のように表現された聖マタイが、光り輝く衣装に身を包んだ天使に教えを受けているという構図の『'''聖マタイと天使''' ([[:en:Saint Matthew and the Angel (Caravaggio)|Saint Matthew and the Angel]])』(第二次世界大戦で消失、1602年)は依頼人の好みに合わず、代替として『'''聖マタイの霊感''' ([[:en:The Inspiration of Saint Matthew (Caravaggio)|The Inspiration of Saint Matthew]])』(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂所蔵、1602年)が描かれた。有名な『'''聖パウロの回心''' ([[:en:The Conversion of Saint Paul (Caravaggio)|The Conversion of Saint Paul]])』(オデスカルキ・バルビ・コレクション所蔵、1600年ごろ)も当時の依頼人から拒否され、同じ主題の『'''ダマスカスへの途中での回心''' ([[:en:Conversion on the Way to Damascus|Conversion on the Way to Damascus]])』(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会所蔵、1601年)として描き直されている。『ダマスカスへの途中での回心』は[[パウロ|聖パウロ]]が乗馬していた馬のほうがパウロよりも大きく描かれており、このことがカラヴァッジョと絵画を依頼したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会 ([[:en:Santa Maria del Popolo|Santa Maria del Popolo]]) の間で論争にもなった<ref>Lambert, p.66.</ref>。
 
[[File:Caravaggio - Martirio di San Pietro.jpg|thumb|『聖ペテロの磔刑 ([[:en:Crucifixion of Saint Peter (Caravaggio)|Crucifixion of Saint Peter]])』(1601年)<br />サンタ・マリア・デル・ポポロ教会チェラージ礼拝堂(ローマ)]]
『'''[[キリストの埋葬 (カラヴァッジョ)|キリストの埋葬]]''' (』([[:en:The Entombment of Christ (Caravaggio)|Entombment]])』(バチカン美術館]]所蔵、1602年 - 1603年)、『'''[[ロレートの聖母 (カラヴァッジョの絵画)|ロレートの聖母]]'''』(サンタゴスティーノ教会所蔵、1604年 - 1606年)、『'''[[聖アンナと聖母子 (カラヴァッジョ)|聖アンナと聖母子]]''' ([[:en:Madonna and Child with St. Anne (Dei Palafrenieri) (Caravaggio)|Grooms' Madonna]])』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1605年 - 1606年)、『'''[[聖母の死''' ([[:en:Death of the Virgin (Caravaggioカラヴァッジョ)|Death of the Virgin聖母の死]])'''』(ルーブル美術館所蔵、1604年 - 1605年)なども有名なカラヴァッジョの宗教画である。とくに『聖母子と聖アンナと聖母子』と『聖母の死』の来歴は、カラヴァッジョ存命時の作品が一部の人々からどのような評価を受けていたのかの好例となっている。
 
『聖アンナと聖母子』は別名『'''蛇の聖母'''』とも呼ばれており、もともとはローマ教皇庁の馬丁組合大信心会が依頼し<ref>このことから『馬丁の聖母』とも呼ばれる。</ref>、[[サン・ピエトロ大聖堂]]の小さな祭壇に飾るために描かれた作品だった<ref>[http://www.parafrenieri.it/ Venerabile Arciconfraternita di Sant'Anna de Parafrenieri]</ref>。だが飾られていたのはわずか二日間だけで、すぐさま祭壇から除去されてしまった。当時の枢機卿付書記官が「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちている…この絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」と書き残している。『聖母の死』は1601年にサンタ・マリア・デッラ・スカラの[[カルメル会|カルメル会修道院]]に礼拝堂を個人所有していた裕福な法律家の依頼を受け、その礼拝堂の祭壇画として描かれた作品だったが、1606年に修道院から所蔵を拒絶されている。同時代の著述家ジュリオ・マンチーニが、修道院からこの作品が拒絶されたのは、当時非常によく知られていた娼婦を聖母マリアのモデルにしたためであると記録している<ref>「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ ''Considerazioni sulla pittura'':)</ref>。同じく同時代人の画家[[ジョヴァンニ・バリオーネ ([[:en:Giovanni Baglione]]) は、どちらの絵画も聖母マリアのむきだしの足が問題視されたのだとしている<ref>Baglione: 「トラステヴェレのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の依頼で描かれた『聖母の死』は、聖母の脚が描かれた慎みに欠ける絵画だったため教会から拒まれた。その後マントヴァ公がこの作品を購入し。自分のもっとも大きなギャラリーへ飾った」(Baglione Le vite de' pittori)</ref>。カラヴァッジョの研究者ジョン・ガッシュは、カルメル会修道院が『聖母の死』を拒絶したのは、芸術的評価ではなくカルメル会の教義が影響しているのではないかと推測した。[[神の母]]は決して死することなく天国へと召されただけであるという[[聖母の被昇天]]の教義を否定している絵画と見なされたとしている。『聖母の死』の代替に描かれたのは、カラヴァッジョの追随者でもあった[[カルロ・サラチェーニ]] (Carlo Saraceni) が描いた祭壇画で、カラヴァッジョの『聖母の死』とは違って、聖母マリアは未だ死んではおらず、座して死に行くさまを描いたものだった。しかしながらこの祭壇画も修道院から受け取りを拒否され、さらなる代替作品として、天使たちが聖歌を歌う中でマリアが天界へと昇天していく絵画が描かれている。とはいえ、このような絵画の受入拒否はカラヴァッジョやその作品が嫌われていたことを意味するとは限らない。『聖母の死』は修道院から拒まれた直後にマントヴァ公[[ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ]]が購入しており、しかもこのときにマントヴァ公にこの作品の購入を勧めたのは[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]だった。その後、1671年にイングランド国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が購入し、[[清教徒革命]]によるイングランド内戦でチャールズ1世が処刑されると、フランスへ売却されてフランス王室コレクションに納められた。
 
[[File:Amor Vincet Omnia.jpg|thumb|left|『[[愛の勝利]]』(1601年 - 1602年)<br />[[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]、[[ベルリン]]]]
キリスト教には関係がないこの時期の作品の一つに、1602年にデル・モンテの取り巻きの一人で銀行家・美術本収集家イタリア人ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ ([[:en:Vincenzo Giustiniani|en: Vincenzo Giustiniani]]) の依頼で描かれた『'''[[愛の勝利]]'''』([[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]所蔵、1601年 - 1602年)がある。描かれているキューピッドのモデルとなったのは、17世紀初頭の記録にフランチェスコの愛称である「チェッコ (Cecco)」と記されている人物である。この人物は後にチェッコ・デル・カラヴァッジョ ([[:en:Cecco del Caravaggio|en: Cecco del Caravaggio]])と呼ばれ、1610年から1625年ごろに画家として活動したフランチェスコ・ボネリではないかと考えられている<ref>ジャンニ・パピはチェッコ・デル・カラヴァッジョはフランチェスコ・ボネリだとしているが、17世紀初頭にカラヴァッジョの身辺の世話をし、モデルも務めたチェッコとボネリとの関連性は状況証拠しか存在しない (Robb, pp193–196)。
</ref>。裸身で矢を手にし、好戦、平和、科学などを意味する事物を踏みにじっている様子で描かれ、その歯をむき出しにしてほくそ笑むいたずら小僧のような表現は、ローマ神話の神である[[クピードー|キューピッド]]を想起することは難しい。カラヴァッジョには他にも半裸の青年として多くのキューピッドを描いた絵画があるが、いずれも芝居の小道具のような翼で描かれており、こちらも神話のキューピッドが描かれているようには見えない。しかしながらカラヴァッジョが意図していたものは、極めて強く写実的に絵画を描くことによって、神たるキューピッドと俗世のチェッコ、あるいは聖母マリアとローマの娼婦という二面性を同時に作品に持たせることだった。{{-}}
 
==== ギャラリー ====
<gallery style="font-size:smaller">>
ファイル:CaravaggioConversionPaul01The Conversion of Saint Paul-Caravaggio (c. 1600-1).jpg|『聖パウロの回心』(1600年頃)<br />オデスカルキ・バルビ・コレクション
ファイル:CaravaggioConversion -on Lathe conversioneWay dito SanDamascus-Caravaggio Paolo(c.1600-1).jpg|『ダマスカスへの途中での回心』(1601年)<br />サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(ローマ)
ファイル:Michelangelo Merisi da Caravaggio - St Matthew and the Angel - WGA04127.jpg|『聖マタイと天使』(1602年)<br />第二次世界大戦で消失
ファイル:The Inspiration of Saint Matthew by Caravaggio.jpg|『聖マタイの霊感』(1602年頃)<br />サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)
ファイル:Michelangelo Caravaggio 001.jpg|『[[ロレートの聖母 (カラヴァッジョの絵画)|ロレートの聖母]]』(1604年 - 1606年頃)<br />サン・タゴスティーノ聖堂 ([[ローマ]])
ファイル:Michelangelo Caravaggio 069.jpg|『[[聖母の死 (カラヴァッジョ)|聖母の死]]』(1604年 - 1606年頃)<br />ルーブル美術館(パリ)
ファイル:CaravaggioSerpent.jpg|『[[聖アンナと聖母子 (カラヴァッジョ)|聖アンナと聖母子]]』(1605年 - 1606年頃)<br />ボルゲーゼ美術館(ローマ)
ファイル:Saint_Jerome_Writing-Caravaggio_(1605-6).jpg|『[[書斎の聖ヒエロニムス]]』(1605年 - 1606年頃)<br />ボルゲーゼ美術館(ローマ)
</gallery>
 
=== ローマ追放と死(1606年 - 1610年) ===
[[File:Michelangelo Caravaggio 066.jpg|thumb|『[[ロザリオの聖母 (カラヴァッジョ)|ロザリオの聖母]]』(1607年)<br />[[美術史美術館]]([[ウィーン]])]]
カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、[[ウンブリア州|ウンブリア]]の[[テルニ県|テルニ]]出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう<ref>このときの乱闘騒ぎとラヌッチオ・トマゾーニの死については未だに謎のままである。当時のいくつかの記録では、乱闘の原因がギャンブルによる金の貸し借りとテニス試合の遺恨によるものだとしており、これが広く受け入れられるようになっている。しかし、近年の研究によるともっと単純な痴情のもつれによるものであると考えられている (Peter Robb's "M" and Helen Langdon's "Caravaggio: A Life")。[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/italy/1396127/Red-blooded-Caravaggio-killed-love-rival-in-bungled-castration-attempt.html 'Red-blooded Caravaggio killed love rival in bungled castration attempt']</ref>。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばない[[ナポリ]]で有力貴族[[コロンナ家]]の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『'''[[ロザリオの聖母 (カラヴァッジョ)|ロザリオの聖母]]''' ([[:en:Madonna of the Rosary (Caravaggio)|Madonna of the Rosary]])』([[美術史美術館]]所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している<ref>1606年のトマゾーニの死亡事件のあと、カラヴァッジョは最初にローマ南部のコロンナ家所領に逃げ込んだ。その後、生前のカラヴァッジョの父フェルモが邸宅管理人を任されていたフランチェスコ・スフォルツァの未亡人、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァを頼ってナポリへと落ち延びている。コスタンツァの兄弟アスカニオはナポリ王国の [[:en:Cardinal protector|Cardinal-Protector]]、マルツィオはスペイン副王の顧問官、妹はナポリの重要な一族カラファ家へと嫁いでいた。これら有力者たちからの支援もあって、ナポリでもカラヴァッジョのもとへは次々と絵画の制作注文が舞い込んでいる。コスタンツァの息子ファブリツィオ・スフォルツァ・コロンナはマルタ騎士団の騎士で将官であり、1607年にカラヴァッジョがマルタ島へ移住する際に便宜を図り、さらに翌年マルタ島の監獄から脱獄するのにも手を貸したと考えられている。カラヴァッジョはマルタ島脱出後の1609年に再びコスタンツァを頼ってナポリの宮殿に滞在した。このようなカラヴァッジョとコロンナ家の親密な関係は多くの伝記に書かれており、美術史家からの研究対象となっている (Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.258, for a brief outline. Helen Langdon, "Caravaggio: A Life", ch.12 and 15, and Peter Robb, "M", pp.398ff and 459ff)。</ref>。
 
『[[慈悲の七つの行い (カラヴァッジョ)|'''慈悲の七つの行い''']]』、『[[キリストの鞭打ち (カラヴァッジョ)|'''キリストの鞭打ち''']]』などの作品によりナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数か月後には、おそらく[[聖ヨハネ騎士団|マルタ騎士団]]の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール ([[:en:Alof de Wignacourt]]) の庇護を求めて、ナポリから[[マルタ]]へと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた<ref>Giovanni Pietro Bellori, ''Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni'', 1672</ref>。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『'''[[洗礼者聖ヨハネの斬首 (カラヴァッジョ)|洗礼者聖ヨハネの斬首]]''' ([[:en:The Beheading of Saint John the Baptist (Caravaggio)|Beheading of Saint John the Baptist]])』([[聖ヨハネ准司教座聖堂]]所蔵、1608年)や、『'''[[アロフ・ド・ヴィニャクールと小姓の肖像]]''' ([[:en:Portrait of Alof de Wignacourt and his Page (Caravaggio)|Portrait of Alof de Wignacourt and his Page]])』(ルーブル美術館所蔵、1607年 - 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。
 
遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている<ref>この乱闘騒ぎに関する証拠がマルタ大学のカイト・シベラス教授によって発見された。 "Frater Michael Angelus in tumultu: the cause of Caravaggio's imprisonment in Malta", ''The Burlington Magazine'', CXLV, April 2002, pp.229–232, and "Riflessioni su Malta al tempo del Caravaggio", ''Paragone Arte'', Anno LII N.629, July 2002, pp.3–20. Sciberras' findings are summarised online at [http://caravaggio.com/preview/attach/data01/D000199.htm Caravaggio.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060310151813/http://caravaggio.com/preview/attach/data01/D000199.htm |date=2006年3月10日 }}.</ref>。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが<ref>「恥ずべき卑劣な男」は、騎士団を除名される際に用いられる決まり文句である。1608年12月1日に騎士団の高位騎士たちが招集されたが、4度に及ぶ喚問にもかかわらずカラヴァッジョの罪状の立証はできなかった。結局騎士たちによる投票が行われ、その結果満場一致でカラヴァッジョの騎士団除名が決定された。</ref>、脱獄してマルタから逃れた。
 
[[File:Michelangelo Caravaggio 010.jpg|thumb|left|『聖ルチアの埋葬』(1608年)<br />サンタ・ルチア・アラ・バディア教会([[シラクサ]])]]
マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後[[シラクサ]]に住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼って[[シチリア]]へと逃れた。二人は共にシラクサを離れて[[メッシーナ]]へと出発し、最終的にシチリアの首都[[パレルモ]]に到着している。カラヴァッジョは旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代の作品には『'''聖ルチアの埋葬''' ([[:en:Burial of St. Lucy (Caravaggio)|Burial of St. Lucy]])』(サンタ・ルチア・アラ・バディア教会所蔵、1608年)、『'''[[ラザロの復活 (カラヴァッジョ)|ラザロの復活]]''' ([[:en:The Raising of Lazarus - Messina (Caravaggio)|The Raising of Lazarus]])』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年ごろ)、『'''羊飼いの礼拝''' ([[:en:Adoration of the Shepherds (Caravaggio)|Adoration of the Shepherds]])』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年)があげられる。カラヴァッジョの作風は進化し続けており、このころの作品は描かれている人物が身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えるかのように表現されている。「カラヴァッジョがシチリアで描いた素晴らしい祭壇画は陰になっている部分が多く、薄暗く広い背景に数人のみすぼらしい人物が描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている。人間の絶望的なまでの不安と心の弱さを表現すると同時に、人間が代々受け継いできた優しさ、謙虚さ、柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている<ref>Langdon, p.365.</ref>。一方でカラヴァッジョの不品行は改まってはおらず、眠っているときでさえ完全武装し、他人の作品を根拠なく誹謗してその絵画を引き裂いたり、地元の画家たちを嘲笑していたという当時の記録が残っている<ref>カラヴァッジョの奇行は画家としてのキャリア初期から評判となっていた。マンチーニはカラヴァッジョを「完全に狂っている」と評し、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテは書簡のなかでカラヴァッジョの奇矯な言動について書き残している。さらにマリオ・ミンニーティに関する1724年に書かれた伝記には、ミンニーティはカラヴァッジョの素行に耐えられず袂を分かったという記述がある。このような奇行はマルタ島移住以来ますます顕著になっていき、18世紀初頭に書かれた『メッシーナの画家たちの伝記 (Le vite de' pittori Messinesi)』にはシチリアでのカラヴァッジョの常軌を逸した言動の逸話がいくつか記載されており、この本を参考としたカラヴァッジョの一生を描いた伝記が現代のランドン (Langdon) やロブ (Robb) といった美術史家から発表されている。ベッローリはカラヴァッジョの町から町、島から島へと渡り歩く「恐るべき」人生にページを割き、結局はナポリを含め「どこにも安住の地はなかった」としている。バリオーネもカラヴァッジョはつねに「敵に追い回されていた」と書いているが、ベッローリと同様にカラヴァッジョの敵が具体的に誰なのかは明らかにしていない。</ref>。
 
カラヴァッジョはシチリアに9か月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期の伝記によればカラヴァッジョがシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家が大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである<ref>Baglione says that Caravaggio in Naples had "given up all hope of revenge" against his unnamed enemy.</ref>。ナポリ帰還後の作品として『'''聖ペテロの否認''' ([[:en:The Denial of Saint Peter (Caravaggio)|The Denial of Saint Peter]])』([[メトロポリタン美術館]]所蔵、1610年ごろ)、『'''洗礼者ヨハネ''' ([[:en:John the Baptist (Caravaggio)|John the Baptist]])』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1610年ごろ)、そして遺作となった『'''聖ウルスラの殉教''' ([[:en:The Martyrdom of Saint Ursula (Caravaggio)|The Martyrdom of Saint Ursula]])』([[インテーザ・サンパオロ]]銀行所有、1610年)がある。特に『聖ウルスラの殉教』は、フン族の王が放った矢が[[聖ウルスラ]]の胸を貫く瞬間を描いた奔放かつ印象的な筆使いの絵画で、それまでの絵画が持ち得なかった躍動感にあふれた作品になっている。
 
[[File:CaravaggioDavid -with Davidthe conHead laof testa diGoliath-Caravaggio Golia(1610).jpg|thumb|『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609年 - 1610年)<br />[[ボルゲーゼ美術館]]([[ローマ]])]]
カラヴァッジョは安全な場所だと思っていたナポリで襲撃を受けた。犯人は不明で、ローマでは「有名な芸術家」カラヴァッジョが殺されたという記録が残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷を負ったものの生命に別状はなかった。『'''洗礼者ヨハネの首を持つサロメ''' ([[:en:Salome with the Head of John the Baptist (Madrid) (Caravaggio)|Salome with the Head of John the Baptist (Madrid)]])』([[王宮 (マドリード)|マドリード王宮]]、1609年ごろ)の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたもので、カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行して『'''ゴリアテの首を持つダビデ''' ([[:en:David with the Head of Goliath (Caravaggio)|David with the Head of Goliath]])』([[ボルゲーゼ美術館]]、1609年)も描いている。若き[[ダビデ]]が不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、この絵画に描かれているゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ ([[:en:Scipione Borghese]]) への贈答絵画にするつもりだった<ref>17世紀の記録には、ゴリアテは自画像でダビデは「小さなカラヴァッジョ (il suo Caravaggino)」であると記されている。「小さなカラヴァッジョ」が何を意味するのかははっきりしないが二つの説があり、若いころの自画像、あるいは有力な解釈として『愛の勝利』のモデルだったチェッコだといわれている。ダビデが手にしている剣には簡約された銘があり「謙遜は高慢を凌駕する」と解釈されている。制作年度はジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ ([[:en:Gian Pietro Bellori]]) が書いた17世紀の芸術家列伝『現代画家・彫刻家・建築家伝』(1672年)にはローマ滞在後期となっているが、近年の研究ではナポリ帰還後だと考えられている (Gash, p.125)。</ref>。
 
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==== ギャラリー ====
<gallery style="font-size:smaller">
ファイル:Caravaggio, flagellazione di cristo, 1610 ca., da s. domenico maggiore 01.JPG|『[[キリストの鞭打ち (カラヴァッジョ)|キリストの鞭打ち]]』(1607年) [[カポディモンテ美術館]] ([[ナポリ]])
ファイル:Caravaggio - Sette opere di Misericordia.jpg|『[[慈悲の七つの行い (カラヴァッジョ)|慈悲の七つの行い]]』(1607年) ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会 (ナポリ)
ファイル:The Crucifixion of Saint Andrew-Caravaggio (1607).jpg|『[[聖アンデレの磔刑 (カラヴァッジョ)|聖アンデレの磔刑]]』(1607年) [[クリーブランド美術館]] (米、オハイオ州)
ファイル:Portrait of Alof de Wignacourt and his Page-Caravaggio (1607-1608).jpg|『[[アロフ・ド・ヴィニャクールと小姓の肖像]]』(1607-1608年) [[ルーヴル美術館]] ([[パリ]])
ファイル:Sleeping Cupid-Caravaggio (1608).jpg|『[[眠るアモール (カラヴァッジョ)|眠るアモール]]』(1608年) [[パラティーナ美術館]] ([[フィレンツェ]])
ファイル:Michelangelo Caravaggio 021.jpg|『[[洗礼者聖ヨハネの斬首 (カラヴァッジョ)|洗礼者聖ヨハネの斬首]]』(1608年)<br />[[聖ヨハネ准司教座聖堂]]([[マルタ]]、[[バレッタ]])
ファイル:Caravaggio - Adorazione dei pastori.jpg|『羊飼いの礼拝』(1609年)<br />聖ヨハネ准司教座聖堂(ローマ)
ファイル:Michelangelo Caravaggio 006.jpg|『[[ラザロの復活 (カラヴァッジョ)|ラザロの復活]]』(1609年頃)<br />メッシーナ州立美術館(メッシーナ)
ファイル:Caravaggio denial.jpg|『聖ペテロの否認』(1609年頃)<br />メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
ファイル:Caravaggio Baptist Galleria Borghese, Rome.jpg|『洗礼者ヨハネ』(1610年頃)<br />ボルゲーゼ美術館(ローマ)
ファイル:CaravaggioUrsula.jpg|『聖ウルスラの殉教』(1610年)<br />インテーザ・サンパオロ銀行所有(ナポリ)
</gallery>
 
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カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあった[[オラツィオ・ジェンティレスキ]]や[[ジョヴァンニ・バリオーネ]]があげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった<ref name=Bellori>Giovanni Baglione 『Le vite de' pittori』, 1642年</ref>。次世代のカラヴァジェスティとして[[カルロ・サラチェーニ]] (Carlo Saraceni)、[[バルトロメオ・マンフレディ]] (Bartolomeo Manfredi)、[[オラツィオ・ボルジャンニ]] (Orazio Borgianni)らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の[[宮廷画家]]になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘[[アルテミジア・ジェンティレスキ|アルテミジア]]も父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった<ref>アルテミジアは1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。</ref>。
 
ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにもかかわらず、[[バッティステッロ・カラッチョ ([[:en:Battistello Caracciolo]])、カルロ・セッリート ([[:en:Carlo Sellitto]])ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。
 
オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 ([[:en:Utrecht Caravaggism]]) と呼ばれる宗教画家たちが存在した<ref name=Bellori />。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代には[[ヘンドリック・テル・ブルッヘン]]、[[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]、[[アンドリエス・ボト ([[:en:Andries Both]])[[ディルク・ファン・バビューレン ([[:en:Dirck van Baburen]]) らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『'''[[キリストの埋葬 (カラヴァッジョ)|キリストの埋葬]]''' (Entombment of Christ)』の模写も行った[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]を初め、[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしている[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]の作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。
 
=== 死後の評価と20世紀の再評価 ===
[[File:Caravaggio - La Deposizione di Cristo.jpg|thumb|『[[キリストの埋葬 (カラヴァッジョ)|キリストの埋葬]]』(1602年 - 1603年)<br />[[バチカン美術館]]([[ローマ]])]]
カラヴァッジョの名声はその死後間もなく急速に廃れてしまった。カラヴァッジョの革新性はバロック芸術のきっかけになったとはいえ、バロック絵画はキアロスクーロを用いた劇的な効果のみを取り入れて、カラヴァッジョの特性といえる肉体的な写実主義には目を向けようとはしなかった。上述した画家以外では、イタリアからは距離があるフランスの[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]、[[シモン・ヴーエ]]、スペインの[[ホセ・デ・リベーラ]]らが直接カラバッジョの影響を受けた画家だが、カラヴァッジョの死後数十年でその作品は単なる醜聞にまみれた画家が描いた絵画とみなされるか、あるいは単に忘れ去られてしまった。カラヴァッジョの死後バロック美術は発展し作風も変化していったが、その成立に多大な貢献をしたカラヴァッジョはバロック美術の発展に多大な貢献をした[[アンニーバレ・カラッチ]]とは違って工房も弟子も持たず、自身の絵画技術を広めるための努力はしていない。自身の作品の根幹ともいえる理性的な自然主義絵画製作手法について何も語ってはおらず、その写実的な心理描写の技法は残された作品から推測するしかなかった。それゆえに、後世のカラヴァッジョの評価は、[[ジョヴァンニ・バリオーネ]] ([[:en:Giovanni Baglione]]) と[[ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ]] ([[:en:GianGiovanni Pietro Bellori]]) がそれぞれ書いたカラヴァッジョに極めて否定的な初期の伝記に大きく左右された。バリオーネはカラヴァッジョと長く確執があった画家で、ベッローリは直接カラヴァッジョとは面識がなかったが、その作品を嫌っていた画家であり、かつ17世紀に影響力があった批評家でもあった<ref>ほかにもスペインで活動していたイタリア人画家ヴォンチェンツォ・カルドゥッチ ( [[:en:Vincenzo Carducci]]) がカラヴァッジョを、他人を欺く「恐ろしい」才能を持った「[[反キリスト|キリストの教えに背く者]]」であると酷評している。</ref>。
 
しかし、1920年代になってからイタリア人美術史家ロベルト・ロンギ ([[:en:Fondazione Roberto Longhi|Roberto Longhi]]) がカラヴァッジョを再評価し、西洋美術史のなかに確固たる地位を与えた。それは、ロンギとL.Venturiが主導した1951年のミラノでの「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派展」で確立された(アンドレ・シャステル)。 ロンギは「[[ホセ・デ・リベーラ]]、フェルメール、ラ・トゥール、レンブラントは、もしカラヴァッジョがいなければ存在しえない画家だっただろう。また、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]、[[エドゥアール・マネ|マネ]]らの芸術も全く異なったものになっていたに違いない<ref>Gille Lambert 2000のp.15に引用されたロンギの見解</ref>」とし、著名な美術史家[[バーナード・ベレンソン]]も、「[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]を除けば、カラヴァッジョほど絵画界に大きな影響を及ぼしたイタリア人画家はいない<ref>Gille Lambert 2000のp.8に引用されたBernard Berensonの見解</ref>」と同様の意見を述べている。
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== カラヴァッジョを題材とした大衆文化作品 ==
* 『[[カラヴァッジオ (映画)|カラヴァッジオ]]』-[[1986年]]に[[イギリス]]の映画監督[[デレク・ジャーマン]]が、カラヴァッジョの生涯や創作スタイルを描いた映画。[[ベルリン映画祭]]で銀熊賞を受賞したこともあり、カラヴァッジョの絵画を多くの人が知るきっかけとなった。
* 『[[カラヴァッジョ 天才画家の光と影]]』-[[2007年]]にイタリアで放送された全2話のテレビ・ミニシリーズ。日本では[[2010年]]に、1本の映画作品として公開された。
* 『カラヴァッジオ』 - 2008年に[[ベルリン国立バレエ団]]により発表されたバレエ作品。カラヴァッジョを[[ウラディミール・マラーホフ]]が演じた。
 
== 日本語文献 ==
; 入門書
* 『カラヴァッジョ巡礼』 [[宮下規久朗]]編([[新潮社]]〈[[とんぼの本]]〉、2010年) ISBN 978-4-1060-2200-5
* 『もっと知りたいカラヴァッジョ 生涯と作品』 宮下規久朗編([[東京美術]]〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2009年) ISBN 978-4-8087-0870-2
* 『カラヴァッジョ アート・ライブラリー』 ティモシー・ウィルソン=スミス(宮下規久朗訳、[[西村書店]]、2003年、新装版2009年) ISBN 978-4-8901-3627-8
* 『カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠』(小学館アーカイヴス、2019年) ISBN 978-4-09-105470-8
* 『一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』 宮下規久朗([[筑摩書房]]<[[ちくまプリマー新書]]>、2020年) ISBN 978-4-480-68369-4
* 『1時間でわかるカラヴァッジョ』 宮下規久朗(カラー版[[宝島社]]新書、2021年) ISBN 978-4-299-00439-0
 
; 伝記
* 『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』 宮下規久朗([[角川学芸出版|角川選書]]、2007年) ISBN 978-4-0470-3416-7
* 『闇の美術史 カラヴァッジョの水脈』 宮下規久朗(岩波書店、2016年) ISBN 4-00-025356-5
* 『カラヴァッジョ 灼熱の生涯』 デズモンド・スアード([[石鍋真澄]]・石鍋真理子訳、[[白水社]]、2000年、新装版2010年) ISBN 978-4-5600-8059-7
* 『カラヴァッジョ伝記集』(石鍋真澄編訳、[[平凡社ライブラリー]]、2016年) ISBN 978-4-582-76838-1
* 『カラヴァッジョの秘密』 コスタンティーノ・ドラッツィオ(上野真弓訳、[[河出書房新社]]、2017年) ISBN 978-4-309-25584-2
 
; 大著
* 『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』 - [[サントリー学芸賞]](文学・芸術部門)受賞 
*: 宮下規久朗([[名古屋大学出版会]]、2004年) ISBN 978-4-8158-0499-2
* 『カラヴァッジョ鑑』 [[岡田温司]]編([[人文書院]]、2001年、復刊2009年)- 17名の論考。ISBN 978-4-4091-0014-1
* 『カラヴァッジオ 生涯と全作品』 ミア・チノッティ解説([[森田義之]]訳、[[岩波書店]]、1993年) ISBN 978-4-0000-8057-6
* 『カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか』 石鍋真澄([[平凡社]]、2022年) ISBN 978-4-582-65211-6
 
; 画集
* 『カラヴァッジォ ギャラリー世界の巨匠』 アルフレッド・モワール解説([[若桑みどり]]訳、[[美術出版社]]、新装版1994年)
* 『カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠⑪』 宮下規久朗編([[小学館]]、2006年) ISBN 978-4-0967-5111-4
* 展覧会図録『カラヴァッジョ <small>光と影の巨匠─バロック絵画の先駆者たち</small>』、[[朝日新聞社]] 編
*: 宮下規久朗ほか解説、[[東京都庭園美術館]]:2001年9月-12月/[[岡崎市美術博物館]]:2001年12月-02年2月
* 展覧会図録『カラヴァッジョ展』、NHK・[[読売新聞社]] 編。日伊国交樹立150周年記念
*: 川瀬佑介・渡辺晋輔ほか解説、[[国立西洋美術館]]、2016年
* 『カラヴァッジョ 全作品集』 ゼバスティアン・シュッツェ([[タッシェン|TASCHEN]](タッシェン・ジャパン)、2010年) ISBN 978-4-88783-401-9
* 『カラヴァッジョ原寸美術館』 宮下規久朗解説(小学館、2021年) ISBN 978-4-09-682359-0
 
== 脚注 ==
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'''作品'''
*[http://www.caravaggio-foundation.org www.caravaggio-foundation.org] 175 works by Caravaggio {{en icon}}
*[httphttps://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/caravaggio/ Caravaggio, Michelangelo Merisi da Caravaggio WebMuseum, Paris webpage] {{en icon}}
*[http://www.eyegate.com/showgal.php?id=33 Caravaggio's EyeGate Gallery] {{en icon}}
 
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{{good article}}
 
{{Normdaten}}
{{ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:からうあつしお みけらんしえろ めりいし}}
[[Category:16世紀イタリアの画家]]
[[Category:17世紀イタリアの画家]]
[[Category:イタリア・バロックの画家]]
[[Category:イタリア出身のLGBTの芸術家]]
[[Category:イタリア・リラ紙幣の人物]]
[[Category:マルタ騎士団員]]
[[Category:教皇領の人物]]
[[Category:ミラノ公国の人物]]