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'''総力戦演説'''(そうりょくせんえんぜつ、{{lang-de-short|'''Sportpalastrede'''}}<ref>sport: スポーツ, palast: 宮殿, rede: 演説。</ref>)とは、[[第二次世界大戦]]中、[[ナチス・ドイツ]]の旗色が悪くなり[[国家総力戦]]が必要となってきたため、[[1943年]][[2月18日]]、宣伝相[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]により[[ベルリン・スポーツ宮殿]]において慎重に選ばれた大勢の観衆の前で行われた演説である<ref>日時と場所については長野(2001年130頁)参照。</ref>。
 
この演説はゲッベルスの行った演説の中で最も有名なものである。ゲッベルス演説ナチス幹部によって、ドイツが困難深刻な状陥りつつあることを率に認め面しているという最初の告白もに、なった。ゲッベルスはドイツの敗北は存続を断言、西洋文明全体崩壊であると主張し、そ存続が危ぶまを避けるためにはドイツ国民はヒトラーの指導に服従、長く困難が存在ても国の全ての力を戦争に傾注を継続することにってこうドイツ難関を打破しなければならないと人々に演説した。
 
==背景==
[[ヴィシーフランス]]の[[フランソワ・ダルラン]]提督が暗殺された約2ヵ月後の[[1943年]][[2月2日]]、[[スターリングラード攻防戦]]は[[フリードリヒ・パウルス]]隷下のドイツ[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]の降伏で幕を閉じた。また、1943年1月23日、[[カサブランカ]]会議では[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]と[[イギリスの首相|イギリス首相]][[ウィンストン・チャーチル]]はドイツに[[無条件降伏]]するよう要求した。そして、[[ソビエト連邦|ソ連]]は[[クルスク]]、[[ロストフ・ナ・ドヌ]]、[[ハリコフ]]と徐々に自国領土をドイツから取り戻しつつあった。
1942年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は、それまでのドイツ軍の圧倒的な勝利とは打って変わり、連合国の反攻によって一進一退の様相を見せるにいたった。
 
[[ソビエト連邦|ソ連]]は[[クルスク]]、[[ロストフ・ナ・ドヌ]]、[[ハリコフ]]というふうに、自国領土を徐々にドイツから取り戻しつつあった。さらにソ連はドイツ軍に占領されていたスターリングラードを再包囲し、次第にドイツ軍を圧倒し始めた。また、[[北アフリカ戦線]]では[[エルヴィン・ロンメル]]率いる[[ドイツアフリカ軍団]]は後退しつつあり、[[トリポリ]]へ輜重を輸送していたドイツの輸送船は[[1月19日]]、連合軍によって撃沈された。そして[[エジプト]]・[[リビア]]における戦いは[[イギリス軍]]の勝利に終わり、[[アルジェリア]]・[[リビア]]からそれぞれ退却した[[枢軸国]]部隊が最後の決戦の地[[チュニジア]]で包囲されていた。1943年1月23日、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]と[[イギリスの首相|イギリス首相]][[ウィンストン・チャーチル]]は[[カサブランカ]]会議をおこない、ドイツに[[無条件降伏]]するよう要求した。
 
[[スターリングラード攻防戦]]は[[1943年]][[2月2日]]、[[フリードリヒ・パウルス]]旗下のドイツ[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]の完全壊滅と降伏によって幕を閉じた。それは、ドイツを主とする枢軸国側が約85万人、ソ連側が約120万人の計200万人の死傷者を出すという、人類史上最大級の惨事のひとつであり、ドイツの退潮を象徴するものとなった。同じ日、ドイツ[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]は、ドイツの総動員に結びつく最初の法定め提案した。2月2日、ドイツ国民がより戦争に集中するようにするため、国中の10万のレストランやクラブが閉鎖された。
 
ゲッベルスは「先週の不幸な出来事」と「ニスの塗っていない絵画のような状況」について演説をするとしており、何百万ものドイツ人がラジオでこの演説を聞いた。観衆は狂信的歓声でこれに答え、ドイツ全土に大きな影響を引き起こした。<!--ただし、この観衆はゲッベルスら宣伝省によって選ばれた人々であり、ゲッベルスは宣伝担当相として多くの技術の一つを示したにすぎない。ゲッベルスはさらにドイツを戦時経済へ走らせるための大きな力を得るためにヒトラーを説得するためにより市民の熱意の蓄積を望んでいた。-->
ゲッベルスの指揮するドイツの[[国民啓蒙・宣伝省]]はスターリングラードの壊滅的敗北をごまかさずに率直に認めた。これは、ゲッベルスが、ドイツ国民の戦争遂行への覚悟を固めさせるためには偽らざる真実を告げることこそが重要だと考えたからであった。その総仕上げとしてゲッベルスは2月18日の演説をおこない、国民に「総力戦」の遂行を呼びかけた。いわば、ゲッベルスはこの演説を、総力戦の実現に向けた国民投票に替えようとしていたのである。会場に集まった2万人の聴衆はゲッベルスの提議に熱狂的な「ヤー(そうだ)!」の歓声によって応えた。また、何百万ものドイツ人がラジオでこの演説を聞き、ドイツ全土に大きな影響を引き起こした。
 
== 内容 ==
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#ドイツ軍、ドイツ人、枢軸国のみにヨーロッパをこのボルシェビキの脅威から救う力がある事
#危険はすぐそばにあり、ドイツは素早く、迅速に決定しなければ、手遅れになる事
 
ゲッベルスは「2000年に及ぶヨーロッパの歴史は危機的状況にある」と結論し、ドイツの失敗を[[ユダヤ人]]のせいにした。ゲッベルスはソ連の総動員を「悪魔的である」と言及し、それを「我々が同一でなくとも、等しい方法で総力戦を戦い抜かない限り、我々はボルシェビキの脅威から逃れることはできない」と説明した。その後、ゲッベルスはそれに対応する臨時処置について演説し、実行される緊縮政策を正当化した。
 
ゲッベルスは演説の最後、「さあ国民よ起て!そして嵐よ起きよ!({{lang-de|Nun Volk, steh’ auf, und Sturm, brich los!}})」という文句で締めくくられた。これは[[解放戦争 (ドイツ)|ナポレオン戦争]]で戦死した詩人[[リュッツォウ義勇部隊 (解放戦争)|テオドール・ケルナー]]が書いた、「国民は起ち、嵐が起こる({{lang-de|Das Volk steht auf, der Sturm bricht los.}})」という一節を踏まえたものであった。
演説のクライマックスで、ゲッベルスは同一の内容の10個の質問を聴衆に投げかけ、聴衆の熱狂的な「ヤー(そうだ)!」の嵐を引き出した。これにより、ドイツ人が勝利への希望を失ったという連合国の主張を否定し、ヒトラーの指導のもと、この戦争を最後まで勝ち抜く覚悟にあることを証明したのである。その質問の事例は下記の通りである。
 
歴史上この演説は、当時ドイツが処々の問題に直面していたが、戦争を続けるために国家の総力を動員することを可能にしたという点で重要な出来事である。ゲッベルスはドイツは妥協も代案も考えておらず、「ドイツはただ、この厳しい戦いのみ考える」と主張した
 
演説のクライマックスで、ゲッベルスは同一演説内容の10個中で次ような質問を聴衆に投げかけ、聴衆の熱狂的な「ヤー(そうだ)!」の嵐を引き出した。これにより、ドイツ人が勝利への希望を失ったという連合国の主張を否定し、ヒトラーの指導のもと、この戦争を最後まで勝ち抜く覚悟にあることを証明し試みたのである。その質問の事例は下記の通りである。
 
:イギリス人どもは、ドイツ国民が勝利への信念を失ってしまったと主張する。しかし、私は諸君に尋ねる、諸君はドイツの最終的な、完全なる勝利を総統とともに、我らとともに信じているか?
:イギリス人どもは、ドイツ国民がますます過酷となる戦時労働に嫌気が差していると主張する。ならば私は諸君に尋ねる、諸君ドイツ国民はもし総統が非常事態に命じるならば、10時間、12時間、必要とするならば14時間働く決意があるか?
:諸君は総力戦を望むか?諸君は必要とされるならば、我々が今、想像する以上の全面的で徹底的な戦争を望むか?
 
ゲッベルスは演説の最後を、「国民よ起て!そして嵐よ起きよ!({{lang-de|Nun Volk, steh’ auf, und Sturm, brich los!}})」という文句で締めくくった。これは[[解放戦争 (ドイツ)|ナポレオン戦争]]で戦死した詩人[[リュッツォウ義勇部隊 (解放戦争)|テオドール・ケルナー]]が書いた、「国民は起ち、嵐が起こる({{lang-de|Das Volk steht auf, der Sturm bricht los.}})」という一節を踏まえたものであった。
 
歴史上この演説は、当時ドイツが処々の問題に直面していたが、戦争を続けるために国家の総力を動員することを可能にしたという点で重要な出来事である。
 
==舞台裏==
[[ファイル:Wollt ihr den totalen Krieg.jpg|250px|サムネイル|{{仮リンク|ヘルベルト・マルクセン|de|Herbert Marxen}}による風刺画『総力戦演説の聴衆』]]
スポーツ宮殿で行われた演説において、ナチスの旗及び[[ハーケンクロイツ]]と共に大文字で「TOTALER KRIEG - KÜRZESTER KRIEG(総力戦-最も短期間の戦争)」と書かれた旗があり、その旗は演台の上側に張られた。<!--ゲッベルスは「全ての階層と仕事(兵士、医者、科学者、芸術家、技術者、建築家、先生、事務職)」が参加していたと主張したが、宣伝省が観衆を慎重に選択したことは明らかであった。-->
 
この演説の聴衆は、宣伝省によって慎重に選ばれた人々であった。演説後、ゲッベルスはこの観衆はドイツで一番訓練された観衆だ、と[[アルベルト・シュペーア]]に語った。
 
なお、演説が行われた[[1943年]][[2月18日]]、[[ミュンヘン]]では[[白いバラ]]運動で知られる[[ハンス・ショル]]と[[ゾフィー・ショル]]の2人が[[ゲシュタポ]]に逮捕された。
 
== 注 ==