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m →‎映画: 『クラさんの心』に加筆、ほか1916年作品に脚注
咫廻彌 (会話 | 投稿記録)
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この出来事は、海軍入りの夢が破れて悲観していた金太郎に刺激を与え、アメリカへ渡るという新たな目標を与えるきっかけとなった{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。渡米を決めた理由について、自伝では「遊学」のためと述べているが{{Sfn|早川|1959|p=22}}、複数の史料では「ダコタ号の船長から、アメリカ行きを勧められたため」と記されており、地元では「ダコタ号の乗客だった若いブロンドの女性を追っかけようとしたため」という言い伝えもある{{Sfn|鳥海|2013|pp=52-54}}{{Sfn|大場|2012|pp=38-40}}。また、アワビ漁業に従事するため[[カリフォルニア州]]へ出稼ぎの経験がある長兄の音治郎が{{Sfn|鳥海|2013|pp=52-54}}、あまりにも無軌道な金太郎をもてあまし、その将来を案じて、アメリカ帰りの地元の名士の小谷仲治郎に相談を持ちかけ、その勧告と世話でアメリカ行きが決まったという証言もある{{Sfn|大場|2012|pp=38-40}}。
 
[[File:Nippon Yusen text logo-Building-02.svgjpg|thumb|left|180px|[[日本郵船]]のロゴ本社]]
與一郎は金太郎の渡米計画に強く反対し、ふてくされた金太郎は毎晩酒を飲んで暴れた{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}{{Sfn|中川|2012|pp=76-78}}。か祢はそんな金太郎を見かねて、2、3週間(2、3日という説もある)かけて父を説き伏せた{{Sfn|中川|2012|pp=76-78}}。ようやく納得した與一郎は、金太郎にアメリカへ行くなら「法制経済をやれ、そして政治家になれ」と命じた{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}。別れが近づいた日、金太郎は與一郎に「一寸悪いことをされたら一尺にして返し、反対に一寸良いことをしてもらったら、一丈にして返せ」「とにかく10年間辛棒せい。10年間がんばっても成功しなかったら、再び日本の土を踏むな」と忠告された{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}。そして與一郎から「男の魂と思って持っていけ」と、昔に與一郎に凄んだ男を追い払った時に使った大小の朱鞘の刀を授けられた{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}{{Sfn|中川|2012|pp=76-78}}。ダコタ号座礁からわずか4か月後の7月10日、金太郎は[[日本郵船]]の安芸丸に乗り、横浜港からアメリカへ向けて出航した。宿子たちは高塚山に登って狼煙をあげ、家族は海岸で木を燃やして、金太郎の船出を励ました{{Sfn|中川|2012|p=82}}。
 
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[[File:Frank Lloyd, Boxoffice Barometer, 1939.jpg|thumb|right|170px|[[フランク・ロイド]](1939年)]]
[[File:Mary Pickford1918.jpg|thumb|right|170px|[[メアリー・ピックフォード]](1918年)]]
1917年、アメリカは[[第一次世界大戦]]に参戦し、政府は増大する軍事費を賄うために戦時[[公債]]([[戦時国債]])の{{仮リンク|自由公債|en|Liberty Bond}}を発行した。雪洲はアメリカ戦時公債発売委員に推薦され、日本人最高記録となる6万ドルもの公債を購入し、さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧めた{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}。雪洲はフェアバンクスやチャップリンなどのハリウッドのスターと同じように公債購入キャンペーンに熱を入れたが、スターたちの公債売上高が公表されたこともあり、雪洲たちは競うようにして公債を売り、ハリウッドの中で2番目の売上げを記録した時があったという{{Sfn|中川|2012|p=136}}。1918年には公債の購入を促進する[[プロパガンダ映画]]『{{仮リンク|バンザイ (映画)|label=バンザイ|en|Banzai (1918 film)}}』(1918年)を製作した{{Sfn|中川|2012|p=137}}{{Efn2|1975年に制作されたドキュメンタリー『''The Moving Picture Boys in the Great War''』では<ref>{{Cite web2|url=https://www.imdb.com/title/tt0424290/|title=The Moving Picture Boys in the Great War|website=[[IMDb]]|accessdate=2024-07-03|df=ja}}</ref>、チャップリンや[[D・W・グリフィス]]の映像と並び、『バンザイ』に登場する雪洲の姿も見ることが出来る。}}。また同じ年に[[フランク・ロイド]]監督の[[短編映画]]『''United States Fourth Liberty Loan Drive''』(米国第4回自由公債運動)も製作され、{{仮リンク|ドロシー・ダルトン|en|Dorothy Dalton}}や{{仮リンク|ウィリアム・ファーナム|en|William Farnum}}、[[メアリー・ピックフォード]]らと共に雪洲も出演している{{R|imdb tt0218692}}。
 
==== 自身の映画会社の立ち上げ ====
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そんな雪洲が直面したのは、自社の作品を配給していた{{仮リンク|フィルム・ブッキング・オフィス・オブ・アメリカ|label=ロバートソン・コール社|en|Film Booking Offices of America}}との関係悪化だった{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108}}。
[[File:The Swamp 1921 lobbycard.jpg|thumb|right|雪洲と[[ベッシー・ラヴ]]共演の『{{仮リンク|スワンプ|en|The Swamp (1921 film)}}』(『沼』{{R|moviewalker mv6826}})(1921年)]][[File:The Swamp (1921) - 1.jpg|thumb|right|180px|同『スワンプ』(『沼』)(1921年11月19日『[[:en:Motion Picture Herald|''Exhibitors Herald'']]』紙の広告)]][[File:The Swamp (1921) - 3.jpg|thumb|right|180px|同『スワンプ』(『沼』)(1922年1月『[[:en:Shadowland|''Shadowland'']]』紙の広告)]][[1921年]]3月、ロバートソン・コール社は映画製作に乗り出し、雪洲の会社と合併することを持ちかけた。自らの原作で、[[ベッシー・ラヴ]]と共演する『{{仮リンク|スワンプ|en|The Swamp (1921 film)}}』(別名『沼』{{R|moviewalker mv6826}})(1921年)を撮影していた雪洲はこの話しに応じた{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。雪洲には100万ドルもの死亡保険がかけられており、もし雪洲が死んだ場合、保険金は雪洲の会社に入る仕組みとなっていたが、ロバートソン・コール社は合併により保険金は自動的に自分たちに譲られると解釈し、受取人の名義を自分たちに変えるよう要求した{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}{{Sfn|早川|1959|pp=79-80}}。雪洲は強くこれに反発したが、それで揉めている最中に[[虫垂炎]]をこじらせた{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。症状がかなり悪化していたにもかかわらず、ロバートソン・コール社は雪洲の保険金目当てで手術を先延ばしにしたため、あとでその事実を知った雪洲は憤慨した{{Sfn|早川|1959|pp=79-80}}。何日経っても手術が行われず、4月8日に検査をすると一刻を争う危険な状況であることが判明し、緊急手術をしたが、腸壁が丈夫で腹膜まで膿が回らなかったため一命をとりとめた{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。
 
[[File:Babe Ruth & Sessue Hayakawa - Aug 1921 EH.jpg|thumb|left|180px|[[ベーブ・ルース]]と握手を交わす雪洲(1921年)。]]
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その後、雪洲はパリの劇場{{仮リンク|カジノ・ド・パリ|fr|Casino de Paris}}で1幕の短い芝居『神の御前に』(1923年)に出演し、連日大入り満員のヒットとなった{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}。雪洲はヨーロッパでもすっかり人気者となり、[[イギリス]]国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]からは王室主催の{{仮リンク|ロイヤル・コマンド・パフォーマンス|label=コマンド・パフォーマンス|en|Royal Command Performance}}での芝居の指名を受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}{{Refnest|group="注"|コマンド・パフォーマンスは御前演劇のことで、国王が自ら指名した俳優の芝居を上演するのが習わしだった{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}。}}。1923年11月にロンドン入りすると数万人の群衆に出迎えられ、チャップリンが凱旋帰国した時よりも熱狂的な歓迎ぶりだったと報じられた{{Sfn|野上|1986|p=123}}。雪洲が上演したのは[[ウィリアム・アーチャー]]の戯曲『サムライ』で、12月13日に[[ロンドン・コロシアム]]で国王の天覧を受けた{{Sfn|中川|2012|pp=193-194}}{{Refnest|group="注"|その前の11月中にも、雪洲はロンドン・コロシアムで『神の御前』を国王の前で上演しており、引き続き行われた一般公演は満員御礼の成功を収めた{{Sfn|中川|2012|pp=193-194}}。}}。舞台は高い評判を呼び、約7か月にわたりイギリス各地で巡演して、その間には2本のイギリス映画『{{仮リンク|愛国の軍使|en|The Great Prince Shan}}』{{R|kinejun 15358}}と『''[[:en:Sen Yan's Devotion|Sen Yan's Devotion]]''』で主演し、青木鶴子と共演した{{Sfn|鳥海|2013|p=167}}{{R|kinejun 15358}}。また『ラ・バタイユ』に続くフランス映画『{{仮リンク|犠牲 (1924年の映画)|label=犠牲|fr|J'ai tué!|en|I Have Killed}}』(1924年)でも主役を演じ、{{仮リンク|ロジェ・リオン|fr|Roger Lion}}と共同で監督を努めた{{R|mv15237}}。
 
[[File:Hayes Theater (51495253685).jpg|thumb|left|180px|{{仮リンク|ヘレン・ヘイズ・シアター|label=リトル・シアター|en|Hayes Theater}}]]
[[1924年]]末に雪洲は再びパリへ戻り、しばらく遊びほうけていたところ、パリのナイトクラブで知り合ったニューヨークの大劇場主{{仮リンク|リー・シューバート|en|Lee Shubert}}から『ラブ・シティ』という舞台で主役の中国人を演じる話を受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}。単なるスターから演技力で評価される俳優へと転身したいと思っていた雪洲は、一度は失敗したブロードウェイで自分の力量を再び試すため、約2年を過ごしたヨーロッパを離れ、[[1925年]]夏にニューヨークへ戻った{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}。『ラブ・シティ』はこれまでにない長台詞が多く、完璧な演技が求められたため、雪洲は稽古中にプレッシャーで胃炎を患い、ひどく痩せてしまったという{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}。舞台は翌[[1926年]]1月からブロードウェイの{{仮リンク|ヘレン・ヘイズ・シアター|label=リトル・シアター|en|Hayes Theater}}で上演されると成功を収め、雪洲の舞台での演技も正当に評価された{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}。
 
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1938年にはフランスで独立プロダクションを旗揚げしようと考え、3本のフランス映画出演で得た収入などから資金を集め、翌1939年にパリの[[シャンゼリゼ通り]]に「デモフィルム」という会社を設立した{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}。その第1作は『ヨシワラ』に続くデコブラ原作で、[[マカオ]]の賭博場を舞台にした悲劇ドラマ『{{仮リンク|マカオ 賭場地獄|fr|Macao, l'enfer du jeu}}』だったが{{R|imdb tt0031600}}、撮影中の同年9月に[[第二次世界大戦]]が開戦し、翌1940年には[[ナチス・ドイツ]]がフランスに侵攻し、『マカオ』が完成した頃にはフランス全土が占領されていた。[[在フランス日本国大使館]]は在仏日本人の退避勧告を出したが、映画製作に懸命だった雪洲はパリにとどまる決断をした{{Sfn|中川|2012|pp=264-265}}。『マカオ』はナチスの映画[[検閲]]を受け、反ナチスの俳優[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]が出演していたために上映許可が下りず、何としても映画を公開させたかった雪洲は、シュトロハイムの出演部分をフランスの俳優に代えて撮り直した{{Sfn|野上|1986|pp=170-171}}。1942年にようやく『マカオ』修正版が完成し、検閲を通過したが、それまでにかかった約3年間の雪洲は無収入で、資金が続かず、デモフィルムはたった1本作っただけで閉鎖された{{Sfn|中川|2012|p=266}}。
 
[[File:Jeep1945-49 wordmarkWillys CJ-2A (8516773565).svgjpg|thumb|left|120px200px|[[ジープ]]のロゴ {{仮リンク|ジープ・CJ|label=CJ-2|en|Jeep CJ}}]]
1942年、雪洲はナチス占領下のパリに在住していた124人の日本人のひとりだった。戦時下で思うような映画作りができず、日本人が映画に出演するチャンスはなおさらない中、雪洲は必ず映画に出られる時が来ると信じて待ち続けた{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}。雪洲は日本人であるため[[ドイツ軍]]には同盟国の人間として扱われ、また国際的有名人であるがゆえに、芸術家たちを[[プロパガンダ]]に利用するナチスに目を付けられたが、雪洲はナチス嫌いで、対独協力にも積極的ではなく、ドイツ軍と一緒にいる写真を撮られそうになるとトイレに隠れるなどして警戒した{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}{{Sfn|鳥海|2013|p=223}}。1944年にパリは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]によって解放されたが、フランスが米英両国とともに宣戦布告した日本との戦争はまだ続いていたため、日本人は連合国側からまだ敵国人と見なされていた{{Sfn|鳥海|2013|p=223}}。雪洲は同じくパリに滞在していた資産家の[[薩摩治郎八]]とともに、対独協力の疑いで投獄された在留日本人の救出に奔走し、そのために[[アメリカ軍]]の[[ジープ]]を運転した{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}。同年にはドイツ軍に検閲された『マカオ』をオリジナル版に戻すため、シュトロハイムの出演部分をつなぎ直して再上映した{{Sfn|鳥海|2013|p=223}}。
 
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[[File:Sessue Hayakawa, 1918, by Apeda Studio.jpg|thumb|left|180px|1918年の雪洲。]]
[[File:Sessue Hayakawa.jpg|thumb|left|180px|1920年代の雪洲。]]
[[File:Franklin avenue.jpg|thumb|left|180px|{{仮リンク|フランクリン通り|en|Franklin Avenue (Los Angeles)}}]]
ハリウッドのスターとして絶頂期にいた雪洲夫妻は、結婚以来[[バンガロー]]で暮らしていたが、1917年にはハリウッドのアーガイル通りと{{仮リンク|フランクリン通り|en|Franklin Avenue (Los Angeles)}}の交差点の一角に、「グレンギャリ城(''Castle Glengarry'')」(またはアーガイル城)と呼ばれる大きな邸宅を購入した{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。もともと雪洲は自分で豪邸を建設するつもりだったが、日本人の土地所有を禁じる[[カリフォルニア州外国人土地法|外国人土地法]]に阻まれ、やむを得ず売りに出されていたこの邸宅を購入したという{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。グレンギャリ城は[[スコットランド]]風の城のような4階建ての石造りの建物で、32室もの部屋があった{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}<ref>{{Cite news|url=https://cinefil.tokyo/_ct/17085984|title=6月10日は日本人俳優で世界に名を轟かし、ハリウッドではセックスシンボルとまで言われ、ヨーロッパでも大成功した早川雪洲の誕生日!|work=cinefil|publisher=miramiru|date=2017-06-10|accessdate=2024-05-24|quote=4階建て32室の大豪邸}}</ref>。正面玄関は道路から前庭の10段ほどの階段を登ったところにあり、左右には大理石の雌雄のライオン像があった{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。内装は古い時代の宮殿風で、東洋の壺や[[ペルシア絨毯]]、イタリアのアンティーク家具など、世界中の調度品や古美術品が置かれた{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。グレンギャリ城の豪壮さは、当時のハリウッドのスターの豪邸がかすんでしまうほどで、観光バスがわざわざ邸宅の前で停車するほどの名所になったという{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}。
 
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[[File:Yutaka Abe.jpg|thumb|left|180px|雪洲の内弟子だった[[阿部豊]](1910年代)]]
[[File:Ushiyama Kiyoto.png|thumb|left|180px|雪洲の内弟子だった[[牛山清人]](1933年)]]
[[File:Tamaki Miura.jpg |thumb|left|180px|[[三浦環]]]]
雪洲夫妻は7人の召使いを雇い、[[ピアース・アロー]]や[[キャデラック]]など4台の車を所有した。運転手は後に写真家して知られる[[宮武東洋]]が務めた。また、雪洲の内弟子だった[[阿部豊]]や[[牛山清人]]、{{仮リンク|ジョージ・桑|en|George Kuwa}}らがグレンギャリ城に住み込んだ{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。雪洲はロサンゼルス市長などの名士をグレンギャリ城に招き、数百人が入れる大広間で、少なくとも週に1度は盛大な[[パーティー]]を開いた{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}。アメリカ巡業に来ていたオペラ歌手の[[三浦環]]を紹介するために、600人以上の招待客を集めてカクテル・パーティーを開いたこともあり、あまりの賑やかさに近くのコンサート会場と勘違いした団体客がやって来たという逸話もある{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}。雪洲夫妻の豪奢な暮らしぶりは、当時のハリウッドのスターの中でも群を抜いており、アメリカの白人の間でも評判になるほどだった{{Sfnm|1a1=野上|1y=1986|1p=95|2a1=フィルムセンター|2y=1993|2pp=15-16}}。夫妻の私生活はたびたび映画雑誌などで報じられ、まさに一挙手一投足が注目を浴びるようなスター夫婦となった{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}<ref>{{Cite book|editor=Jennifer M. Bean |date=2011 |title=Flickers of Desire:Movie Stars of the 1910s |publisher=Rutgers University Press |page=107}}</ref>。
 
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当時の日本人男性としては大男の部類に入る方だったと伝えられている{{Sfn|野上|1986|p=77}}。自身は身長を172センチメートルまたは173センチメートルを自称しており{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}{{Sfn|野上|1986|p=77}}、[[1917年]]の『米国映画名優写真集』では身長170センチメートルと記載されている{{Sfn|中川|2012|p=396}}。しかし、[[1907年]]に渡米した時に乗船した船の乗客名簿には、身長が5フィート6インチ(約168センチメートル)と記載されており、同船した日本人男性24人の中で6番目に背が高かった。大場俊雄はそのことから、大男とは言い難いと指摘している{{Sfn|大場|2012|p=48}}。一方で中川織江は、当時の日本人男性の標準からすると、身長168センチは決して低くはないと述べている{{Sfn|中川|2012|p=85}}。日本の映画業界では、箱馬などの踏み台に乗って背を高くすることを「[[セッシュ]]」と呼ぶが、これはハリウッドのスターに比べて身長が低かった雪洲が{{Refnest|group="注"|野上は、『{{仮リンク|東京ジョー (映画)|label=東京ジョー|en|Tokyo Joe (film)}}』で雪洲が[[ハンフリー・ボガート]]と並んで写っているスチル写真を見て、177センチのボガートよりかなり小さいと述べている{{Sfn|野上|1986|p=77}}。}}、踏み台に乗って演技をしたことが由来とされている{{Sfn|中川|2012|p=85}}<ref>{{Cite book|和書 |author=|date=2012-5 |title=現代映画用語事典 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873763675 |page=84}}</ref>。
 
[[File:Yomiuri- Shimbun-Logo Tokyo Headquarters Building 2.svgjpg|thumb|leftright|170px150px|[[読売新聞東京本社]]』のロゴ([[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]])]]
[[File:A pinup shop - Asakusa, Tōkyō - 1954 - Tanuma Takeyoshi.png|thumb|left|170px|[[ブロマイド]](1954年)]]
少年時代から端正な顔立ちをしていた{{Sfn|中川|2012|p=65}}。顔が大きいことでも知られ、脚本家の[[舟橋和郎]]は印象について「大きく立派な顔だった」と述べている。中川は、兄の音治郎の葬式の時の集合写真を見て、雪洲の顔が他の人たちと比べて飛びぬけて大きいと指摘している{{Sfn|中川|2012|p=97}}。額に[[ほくろ]]があることも特徴的で、[[1922年]]に初帰国した時の『[[読売新聞]]』の記事の見出しには「お馴染みのほくろを見せて雪洲氏」と書かれていたが、大場が調べたところによると、[[ブロマイド]]でほくろが写っているものは多くないという{{Sfn|大場|2012|p=48}}。