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咫廻彌 (会話 | 投稿記録)
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[[File:Demille_-_c1920.JPG|thumb|right|150px|[[セシル・B・デミル]](1920年)]]
[[File:NewYorkTimes.svg|thumb|right|250px|[[ニューヨーク・タイムズ]]のロゴ]]
同社で4本目の出演作となる[[セシル・B・デミル]]監督の『[[チート (映画)|チート]]』(1915年)で、雪洲は国際的なトップランクのスターとなった{{Sfn|垣井|1992|pp=75-77}}{{Sfn|野上|1986|pp=68-69}}。雪洲が演じたのは、[[プレイボーイ]]でお金持ちの日本人美術商のヒシュル・トリで、有閑夫人を借金のカタにとり、自分の所有物である証として彼女の肌に焼きごてを押し付け、最後には白人の制裁を受けるという非道な[[悪役]]だった{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}{{Sfn|中川|2012|pp=115-116}}。雪洲は有閑夫人を演じたスターの{{仮リンク|ファニー・ウォード|en|Fannie Ward}}の相手役であり、助演としての出演ではあったものの{{Sfn|宮尾|2009|pp=304-305}}、作品はラスキー社史上最高の12万ドルの興行収入を稼ぐ大ヒットとなり、雪洲の人気は一気に高まった{{Sfn|宮尾|1996|pp=232-233}}。とくにアメリカの白人の女性観客には、雪洲のエキゾチックな容貌や色気、残忍なキャラクターが、それまでに味わったことのない魅力となり、雪洲はたちまち女性観客から熱狂的に支持される{{仮リンク|マチネー・アイドル|en|Matinée idol}}となった{{Sfn|野上|1986|pp=68-69}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}{{Sfn|中川|2012|pp=115-116}}。雪洲の演技力も高く評価され、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は「ウォードは偉大な女優となるためには、悪役を演じた日本人男優(雪洲)をよく観察すべきだ」と述べた{{Sfn|宮尾|1996|p=236}}。
 
[[File:The Cheat FilmPoster.jpeg|thumb|left|150px|『[[チート (映画)|チート]]』(1915年)のポスター。]]
[[File:RafuShimpo.jpg|thumb|left|150px|[[羅府新報]](1942年)]]
しかし、『チート』は[[日系アメリカ人]]社会で大きな物議を醸し、残忍な日本人として描かれる雪洲の役柄が不正確であると非難された{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。当時のアメリカでは[[黄禍論]]が浸透し、アメリカ人にとって日本は曖昧な不安や脅威の対象と思われていた{{Sfn|宮尾|1996|pp=233-235}}。とくに西海岸では[[排日|排日運動]]が高まりつつあり、1913年にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を禁じる[[カリフォルニア州外国人土地法|外国人土地法]]が制定された{{Sfnm|1a1=佐藤|1y=1985|1p=265|2a1=垣井|2y=1992|2pp=73-74}}。そんな背景があり、排日ムードにさらされている日系人は、『チート』を白人たちの[[反日感情]]を助長する「排日映画」と見なし{{Refnest|group="注"|『[[チート (映画)|チート]]』の前に公開された『{{仮リンク|タイフーン (映画)|label=タイフーン|en|The Typhoon}}』も、日系人の間で排日映画として問題になっている{{Sfnm|1a1=佐藤|1y=1985|1p=265|2a1=垣井|2y=1992|2pp=73-74}}。}}、以前よりも差別排斥が酷くなることを懸念した{{Sfn|垣井|1992|pp=75-77}}{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。『[[羅府新報]]』は12月24日付けの記事で、雪洲を「排日俳優」「[[売国奴]]」と呼び、26日付けの記事では「在米同胞が常に米国社会に親和しようと努力しているのに、早川は臆面もなくこれを破壊した」と批判した{{Sfn|大場|2012|pp=89-90}}。雪洲は27日にロサンゼルスの日本人会に出頭して聴取を受け、29日付けの『羅府新報』に次のような謝罪広告を発表した{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。
 
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==== スターダム ====
[[File:The Honor of His House poster.jpg|thumb|left|180px|ラスキー社時代の主演作『{{仮リンク|家門の誉|en|The Honor of His House}}』(1917年)のポスター。]]
[[File:Thesoulofkurasan-1917-advert.jpg|thumb|left|180px|『{{仮リンク|クラさんの心|en|The Soul of Kura San}}』(1916年)のポスター。]]
[[File:Sessue Hayakawa Film Advertisement.jpg|thumb|left|180px|『{{仮リンク|極東の招き|en|The Call of the East}}』(1917年)のポスター。]]
[[File:The Town Crier, v.12, no.50, Dec. 15, 1917 - DPLA - 7f8bfdc5c12489340a8febb6cb73c86b (page 2) (cropped).jpg|thumb|left|180px|雪洲、[[ダグラス・フェアバンクス]]ら「[[パラマウント・ピクチャーズ|パラマウント / アートクラフト]]のスターたち」(1917年12月15日)]]
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1918年4月に雪洲とフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーの契約が切れ、4月中旬に自身の映画会社「{{仮リンク|ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション|en|Haworth Pictures Corporation}}」を設立した{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}{{Refnest|group="注"|社名の「ハワース」は、早川の「Ha」と同社で仕事を共にした映画監督[[ウィリアム・ウォーシントン|ウィリアム・ワーシントン]]の「Worth」からとった{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}。}}。これは[[社会的少数者|マイノリティ]]の役者が制作会社を経営する初めてのケースとなった<ref name="seattletimes 20080319">{{Cite news|last=Whitty|first=Stephen|url=https://www.seattletimes.com/entertainment/movies/on-fringes-today-in-film-asians-had-early-pioneer/|title=On fringes today in film, Asians had early pioneer|newspaper=[[シアトル・タイムズ|The Seattle Times]]|date=2008-03-19|accessdate=2024-05-08|language=en}}</ref>。スタジオは旧[[トライアングル・フィルム・コーポレーション|トライアングル社]]の[[D・W・グリフィス]]の撮影所を買い取って改築し、300人以上の従業員を抱えた{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}。雪洲は主演とプロデューサーを務め、場合によっては脚本や編集も兼ね、睡眠時間を削ってまで死に物狂いで働いた{{Sfn|野上|1986|pp=99-100}}{{Sfn|中川|2012|pp=144-145, 149}}。ハワース・ピクチャーズで製作兼主演した作品は計22本で、1本あたりの予算は15万ドルだった{{Sfn|中川|2012|pp=144-145, 149}}。雪洲が稼ぐギャラは週給1万ドル以上に達した{{R|SmaS 20040117}}。作品の半数以上は[[ウィリアム・ウォーシントン|ウィリアム・ワーシントン]]や[[コリン・キャンベル (映画監督)|コリン・キャンベル]]が監督したが、雪洲は彼らに注文を付けたりして監督業にまで関与した{{Sfn|野上|1986|pp=99-100}}{{Sfn|中川|2012|pp=144-145, 149}}。
 
[[File:A Heart in Pawn (1919) - 1.jpg|thumb|left|180px|『{{仮リンク|明暗の人|en|A Heart in Pawn}}』(1919年3月22日『[[:en:Motion Picture Herald|''Exhibitors Herald'']]』のスチール写真)]]
[[File:The Courageous Coward (1919) - Ad 1.jpg|thumb|left|180px|『{{仮リンク|勇気ある卑怯者|en|The Courageous Coward}}』(1919年4月12日『[[:en:The Moving Picture World|''The Moving Picture World'']]』誌の広告)]]
[[File:The Courageous Coward (1919) - 2.jpg|thumb|left|180px|善良な日本人を演じた『{{仮リンク|勇気ある卑怯者|en|The Courageous Coward}}』 青木鶴子と{{R|mv9227}}(1919年5月3日『[[:en:Motion Picture Herald|''Exhibitors Herald'']]』のスチール写真)]]
映画研究者の{{仮リンク|宮尾大輔|en|Daisuke Miyao}}によると、雪洲が自身の映画会社を設立した本質的な理由は、それまで映画スターの地位を保つためとはいえ誤った日本人のイメージを与えられ続け、日本人から非難を受けることに不満があったからだったという{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。実際に雪洲は、1916年に『{{仮リンク|フォトプレイ|en|Photoplay}}』誌のインタビューで、「(『{{仮リンク|タイフーン (映画)|label=タイフーン|en|The Typhoon}}』や『[[チート (映画)|チート]]』での役柄は)我々日本人の性格に忠実ではない。それらは人々に日本人について誤ったイメージを与えている。私は本当の我々を明らかにする映画をつくりたい」と発言している{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}<ref>{{Cite journal|last=Kingsley |first=Grace |title=That Splash of Saffron:Sessue Hayakawa, a Cosmopolitan Actor, Who for Reasons of Nativity, Happens to Peer from Our White Screens with Tilted Eyes |journal=Photoplay |volume=9.4 |date=March 1916 |pages=139}}</ref>。宮尾は、「スターの地位を維持することと愛国的感情との間で苦悩した早川は、自社を設立することでその解決を図る第一歩を踏み出した」と述べている{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。
 
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ハリウッドのスターとして絶頂期にいた雪洲夫妻は、結婚以来[[バンガロー]]で暮らしていたが、1917年にはハリウッドのアーガイル通りと{{仮リンク|フランクリン通り|en|Franklin Avenue (Los Angeles)}}の交差点の一角に、「グレンギャリ城(''Castle Glengarry'')」(またはアーガイル城)と呼ばれる大きな邸宅を購入した{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。もともと雪洲は自分で豪邸を建設するつもりだったが、日本人の土地所有を禁じる[[カリフォルニア州外国人土地法|外国人土地法]]に阻まれ、やむを得ず売りに出されていたこの邸宅を購入したという{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。グレンギャリ城は[[スコットランド]]風の城のような4階建ての石造りの建物で、32室もの部屋があった{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}<ref>{{Cite news|url=https://cinefil.tokyo/_ct/17085984|title=6月10日は日本人俳優で世界に名を轟かし、ハリウッドではセックスシンボルとまで言われ、ヨーロッパでも大成功した早川雪洲の誕生日!|work=cinefil|publisher=miramiru|date=2017-06-10|accessdate=2024-05-24|quote=4階建て32室の大豪邸}}</ref>。正面玄関は道路から前庭の10段ほどの階段を登ったところにあり、左右には大理石の雌雄のライオン像があった{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。内装は古い時代の宮殿風で、東洋の壺や[[ペルシア絨毯]]、イタリアのアンティーク家具など、世界中の調度品や古美術品が置かれた{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。グレンギャリ城の豪壮さは、当時のハリウッドのスターの豪邸がかすんでしまうほどで、観光バスがわざわざ邸宅の前で停車するほどの名所になったという{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}。
 
[[File:Pierce-ArrowColorAd.jpg|thumb|right|180px|[[ピアース・アロー]]の広告(1919年)]]
[[File:Manzanar portrait Toyo Miyatake 00100u.jpg|thumb|left|180px|雪洲夫妻の運転手をしていた[[宮武東洋]](1943年)]]
[[File:Yutaka Abe.jpg|thumb|left|180px|雪洲の内弟子だった[[阿部豊]](1910年代)]]
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[[File:Douglas Fairbanks cropped.jpg|thumb|right|170px|[[ダグラス・フェアバンクス]]]]
[[File:Williamshart.jpg|thumb|right|170px|[[ウィリアム・S・ハート]](1918年)]]
[[File:Chicago Tribune Logo.svg|thumb|right|200px|[[シカゴ・トリビューン]]のロゴ]]
1910年代のアメリカでは、[[チャールズ・チャップリン]]、[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[ウィリアム・S・ハート]]と匹敵する知名度と大きな人気を獲得していた{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|野上|1986|pp=93-95}}{{Sfn|垣井|1992|p=66}}。当時の映画ファンの間では「悲劇のハヤカワ、喜劇のチャップリン、西部劇のハート」が合言葉となり{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}、1917年の『{{仮リンク|デトロイト・ジャーナル|en|Detroit Journal}}』紙の上映広告では、雪洲の主演作がチャップリンやハートの作品と並べて「マンモス級三本立て」と宣伝された{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|宮尾|2009|p=298}}。1916年の『[[シカゴ・トリビューン]]』紙では「早川雪洲が先週の人気投票で第1位となった」と報じられ、1918年の映画ファン雑誌『{{仮リンク|モーション・ピクチャー・マガジン|label=モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン|en|Motion Picture Magazine}}』の人気投票では男女優合わせて総合44位に選ばれた{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}。[[File:Dramatic Mirror 1917-09-08 cover.jpg|thumb|left|120px|表紙の雪洲(1917年9月8日『[[:en:New York Dramatic Mirror|''Dramatic Mirror'']]』紙)]][[File:Sessue Hayakawa - Jun 15 1918 EH.jpg|thumb|left|120px|表紙の雪洲(1918年6月15日『[[:en:Motion Picture Herald|''Exhibitors Herald'']]』紙)]]また、いくつものアメリカの映画雑誌では表紙を飾った{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}。ヨーロッパでも高い人気を獲得しており、例えば、1922年にスイスの映画評論誌が発表したスターの人気投票では「悲劇男優部門」のトップに選ばれ{{Sfn|垣井|1992|p=90}}、1925年にフランスの『カンデット』紙が発表した「世界の映画俳優」の人気投票では12位に選ばれた{{Sfn|中川|2012|p=203}}。