「イランのユダヤ人」の版間の差分

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パルティアは広大なイラン一体を支配したにも関わらず、政治は領内の属国を[[アルサケス氏]](中国名:安息)が統率するという地方分権のような様態を示しており、異民族に対しては総じて寛大であった。1世紀にはアルベラ(現イラク領[[アルビール]])に都を置いた属国[[アディアバネ王国]]の指導者層がユダヤ教に改宗し、エルサレム神殿の建設に資金を提供したという記録が残っている。
 
[[アレクサンドリア]]の[[ディアスポラ]]で哲学者[[アレクサンドリアのフィロン|フィロン]]は、当時パルティア領であったバビロニアにはおびただしい数のユダヤ人が暮らしていたと残している。ローマとイスラエルによる[[ユダヤ戦争]]の最中、[[70年]]のエルサレム陥落の際には多くのユダヤ人が東方へ亡命してきた。以降バビロンのユダヤ人はローマと対立するパルティアを支援し続け、当地の君主もユダヤ人の長に'''レシュ・ガルタ'''(アラム語:{{lang|he|ריש גלותא}}、ローマ字転写:Resh Galuta。流浪の民の長)という称号を授けた。
 
ユダヤの学者たちは[[3世紀]]前期にパルティア領[[スラ]]、[[ネハルデア]]、[[プンベディタ]]の学院で[[タルムード]]を編纂した。しかしパルティアが崩壊した後、中央集権的で[[ゾロアスター教]]を熱心に奉じる[[サン朝]]の台頭によりスラの学院は[[259年]]に閉鎖、取り壊されることとなる。
 
==サーサーン朝==
 
[[226年]]に[[アルダシール1世]]がパルティアを倒して[[サーサーン朝]]を建て、[[ゾロアスター教]]を国教に定めると、[[マニ教]]や[[仏教]]など他宗教に対する弾圧が始まり、ユダヤ教もその例外ではなくなった。しかし息子の[[シャープール1世]]は一転してユダヤ人に対して寛容であり、彼らの共同体の育成を進めた。
 
[[4世紀]]に帝国の黄金期を築き上げた[[シャープール2世]]は母親がユダヤ人の生まれであり、帝国内のユダヤ人に対する信教の自由を認め、圧力をかけないよう法律を改正した。
 
==初期イスラーム==
 
[[639年]]の[[カディシーヤの戦い]]、[[644年]]に[[ニハーヴァンドの戦い]]で[[アラブ人]]のイスラーム教徒がペルシア軍を破った直後にサーサーン朝は滅亡、イスラームによる支配が行われるようになった。同時にシャリーア法の適用によりユダヤ人はキリスト教徒と同じく[[ズィンミー]]([[啓典の民]])と呼ばれ、信仰の自由は以前と同じく保護され、同時期のヨーロッパで迫害されていたユダヤ人より格段によい扱いを受けていたが、それと引換えに[[ジズヤ]]([[人頭税]])や[[ハラージュ]](土地税)を取られることとなった。
 
[[イスラーム教徒によるペルシア征服|イスラーム征服]]後のイランでは、ユダヤ人は医師、学者、職人などの職について生計を立てており、天文学者[[マーシャアッラー]]のような優れた学者たちは君主に重んじられた。
 
==主なイランのユダヤ人==