「バナト」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m ロボットによる 追加: eu:Banat |
編集の要約なし |
||
26行目:
===ハプスブルク支配===
[[Image:Elayet of temesvar.png|thumb|230px|left|[[:en:Eyalet of Temeşvar|テメシュヴァール州]]]]
17世紀、バナトの一部がオーストリアの[[ハプスブルク君主国]]の一部となった。1716年、[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]がバナトの残りをトルコから奪い取った。1718年の[[パッサロヴィッツ条約]]後、テメシュヴァールのバナトの称号を得て、1751年まで軍事境界線下(軍政国境地帯)のハプスブルク君主国分離県のままにおかれた(軍政国境地帯に住む人々は、土地を耕す農民であり、有事の際にはトルコと戦ういわば屯田兵であった)。1751年、女帝[[マリア・テレジア]]が軍政から民政へ移行した。テメシュヴァールのバナト県は1778年に廃止された。バナト南部地域は、1871年に境界線が廃止されるまで[[軍政国境地帯]](バナト・クライナ)に含まれたままだった。
トルコ支配下では、バナトの一部は戦禍の年月のため人口密度が低く、さらに多くの地域はほとんど無人の湿地、荒野や森林であった。メルシー伯クラウディウス(1666年-1734年)は1720年にテメシュヴァールのバナト知事を任命され、バナトの再生のため数あまたの法令を採用した。ドナウ川とティサ川近くの湿地は一掃され、道路と運河が多額の出費で建設され、ドイツ人職人とその他移住者らが地区の植民、農業、貿易促進に引きつけられてやってきた。
33行目:
[[Image:Vojvodina10.png|thumb|250px|バナトの各郡。[[バチュカ]]と[[スレム]]。1881年以後はかつての[[セルビア・ヴォイヴォディナおよびタミシュ・バナト]]は5郡となる]]
[[Image:Banat republic.png|thumb|250px|バナト共和国、1918年]]
女帝マリア・テレジアもバナトに多大な関心を持っていた。彼女は多くのドイツ人小作農らを植民させ、国内の鉱業生産開拓を後押しし、メルシー伯によって導入された法令を発展させた。[[シュヴァーベン]]、[[アルザス地域圏|アルザス]]、[[バイエルン州|バイエルン]]、オーストリアからドイツ人移住者がやってきた。東部バナトの移住者の多くはほとんどドイツ人であった。バナトに住む民族的ドイツ人はドナウ・シュヴァーベン人として知られる。ドナウ・シュヴァーベン人のうちの一部には、[[フランス語]]を母語とする者または独語仏語の話者が混在して暮らす[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]地方出身の者がおり、数世代に渡ってフランス語そして特別な民族アイデンティティーを維持し続けた。
1779年、バナト地域はハプスブルク領ハンガリー王国へ併合され、トロンタール、テメス、クラッソーの3つの県が創設された。1848年、バナト西部はハプスブルク君主国に含まれるセルビアの州、[[セルビア・ヴォイヴォディナ]](Serbian Vojvodina)の一部となった。1848年革命の間、バナトはセルビア・ヴォイヴォディナのセルビア軍とハンガリー王国軍とにそれぞれ占領された。その日付は、バナト人に対するセルビア国粋主義の拡大の始まりとなった。
|