「ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ」の版間の差分

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1696年に[[パリ]]で誕生、ルイ14世が名付け親となった。[[スペイン継承戦争]]の終盤に当たる[[1712年]]に[[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール|ヴィラール]]元帥のもとで[[ドゥナの戦い|ランドルシー解囲戦]]に参戦したが、[[1711年]]に[[バスティーユ牢獄|バスティーユ要塞]]に投獄されたこともあり、[[1716年]]に[[決闘]]の罪で、[[1719年]]にはルイ15世の[[摂政]]である[[オルレアン公]][[フィリップ2世 (オルレアン公)|フィリップ2世]]失脚を目論んだメーヌ公妃[[ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン]]とスペインの駐仏大使{{仮リンク|アントニオ・デル・ジュディーチェ|label=チェッラマーレ公|en|Antonio del Giudice}}の陰謀({{仮リンク|チェッラマーレ陰謀事件|en|Cellamare conspiracy}})に加担した罪で3度投獄された。フィリップ2世の娘[[カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス]]と恋愛騒動を起こしたことも投獄に繋がった。
 
こうした身持ちの悪さにもかかわらずルイ15世からは内廷侍従長として重用され、[[1725年]]から[[1729年]]の4年間は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]駐在大使を務め[[ウィーン]]に滞在した。また、ルイ15世に[[ネール姉妹]]を斡旋した首謀者と見なされており、特に従妹の[[マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール|シャトールー公爵夫人]]との関係は密接でしばしば手紙で宮廷の情報を交換し合っていた。[[ポーランド継承戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]に参戦、[[1743年]]の[[デッティンゲンの戦い]]と[[1745年]]の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]でフランス軍に従軍した一方、[[1744年]]のシャトールー公爵夫人の死後ルイ15世の[[公妾]]となった[[ポンパドゥール夫人]]が勢力を振るうようになるとはじめは抵抗したが、後に抵抗の不利を悟って恭順の姿勢を示した<ref>グーチ、P113、P136 - P156、P201 - P203。</ref>。
 
[[七年戦争]]にも参戦して[[1756年]]に[[メノルカ島]]攻略を計画・指揮して[[グレートブリテン王国|イギリス]]から奪取([[セント・フィリップ砦包囲戦 (1756年)|メノルカ包囲戦]])、翌[[1757年]]にドイツ戦線の司令官を[[ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ|デストレ公]]から引き継ぎイギリスの大陸領でもある[[ハノーファー王国|ハノーファー]]を侵略してイギリス軍を追い詰めたが、イギリス軍司令官の[[カンバーランド公]][[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|ウィリアム・オーガスタス]]と[[クローステル・ツェーヴェン協定]]を結び撤退した({{仮リンク|ハノーファーの侵略 (1757)|label=ハノーファーの侵略|en|Invasion of Hanover (1757)}})。戦後フランス政府から汚職と協定が寛大過ぎると非難され辞職、軍人としての評価は高くない。