大和絵
大和絵(やまとえ)は日本絵画の様式概念の1つ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のこと。「やまと絵」「倭絵」「和絵」などとも表記され、「日本画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。源氏物語絵巻などの絵巻物に典型的に見られる。土佐派などの流派に受け継がれ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、中国の水墨画の技法・主題を統合したと評される。
概念
「大和絵」の定義は、時代によって意味・用法が異っている。
平安時代から14世紀前後までは、画題についての概念であり、日本列島における故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物事物に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。
14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、平安時代に確立された伝統的絵画様式を大和絵と称するようになった。一方「唐絵」(漢画)は宋以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった[1]。
歴史
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平安時代
アジア一帯に強力な政治的・文化的影響を及ぼした唐は、9世紀末には国力が衰え、10世紀初頭には崩壊した。アジア諸地域ではこの頃から中国の影響を離れ、文化の地方化が進んだといわれている。日本においては894年に遣唐使が中止され、10世紀には唐の影響を脱した、いわゆる国風文化が栄えるようになった。漢字をもとに仮名が考案され、和歌や物語文学が興隆し、和様書道が成立したことなどがその具体的な現れであり、大和絵の出現もこの頃と推量される。唐絵に対する「やまと絵」の語の初出は、藤原行成の日記「権記」の長保元年(999年)10月30日条とされ、そこには「倭絵四尺屏風」に、当時能書として評判の高かった行成が文字を書き入れたことが記録されている。同じ頃(10世紀末 - 11世紀初)の成立である『源氏物語』「絵合」の巻には『竹取物語』『うつほ物語』『伊勢物語』などの物語絵が登場する。『源氏物語』はもとより創作作品ではあるが、当時の宮廷・貴族社会において日本の物語文学を題材にした絵画が享受されていたことが反映しているものと考えられる。
現存する平安時代の絵画作品において、仏教関係以外の世俗絵画としては、宮廷や貴族の邸宅内の調度や間仕切りのため、大和絵の障子、屏風などの大画面の作品が多数制作されたとされる。しかし、現存するものは社寺関係のやや特異な遺品のみである。平安時代前期から中期にかけての大和絵の絵師としては、巨勢派(こせは)の巨勢金岡(こせのかなおか)とその子である巨勢相覧(おうみ)、飛鳥部常則(あすかべのつねのり)などの名が伝わるが、これらの絵師には現存する確実な遺品はなく、実作品からその作風の変遷をたどることはできない。絵巻物にしても、現存するものは『源氏物語絵巻』など12世紀頃の作品が最古であり、11世紀以前にさかのぼる物語絵の実物は現存しないため、その実態や様式の変遷については今なお不明な点が多い。
平安時代の大和絵の遺品として真っ先に挙げられるのは絵巻物である。四大絵巻と称される『源氏物語絵巻』『伴大納言絵詞』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』はいずれも平安時代末期の12世紀に制作されたもので、いわゆる「院政期文化」の所産である(ただし『鳥獣人物戯画』4巻のうち2巻は鎌倉時代制作)。小画面の絵巻のほかに屏風、障子などの大画面の大和絵も多数作られたことは記録からは明らかだが、現存する遺品は非常に少ない。
- 代表作
- 山水屏風(せんずいびょうぶ) - 京都国立博物館蔵、国宝。京都・東寺(教王護国寺)に伝来したもので、密教の儀式の道場に立てられた屏風である。11世紀[注釈 1]。
- 聖徳太子絵伝 - 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)、国宝。もと法隆寺東院の絵殿の壁画だったもので、現在は額装に仕立てられている。延久元年(1069年)、秦致貞(正確な読み方は不明だが通常「はたのむねざね」と読む)という作者の名前も判明している。
- 平等院鳳凰堂壁扉画 - 京都・平等院蔵、国宝。「九品来迎」(くほんらいごう)を主題とする浄土教系の仏教絵画であるが、背景には大和絵風の山水が描かれており、平安時代にさかのぼる数少ない大和絵資料としても貴重。天喜元年(1053年)完成。
- 源氏物語絵巻 - 徳川美術館、五島美術館蔵、国宝。
- 伴大納言絵詞 - 出光美術館蔵、国宝。
- 信貴山縁起 - 奈良・朝護孫子寺蔵、国宝。
- 鳥獣人物戯画 - 京都・高山寺蔵、国宝。
- 扇面古写経 - 大阪・四天王寺などに分蔵、国宝・重文。
鎌倉時代
鎌倉時代は院政期につづいて絵巻物がさかんにつくられた時代である。戦乱や武士の生活に題材をとったものがあらわれ、民間宗教の時代であることを反映して寺社の縁起や高僧の伝記、仏教説話などを題材としたものが多く描かれた。後者は、民衆に教えを広めるためにさかんに制作されたもので、社寺への報恩の意味で奉納されたものも少なくなかった。
この時代の絵巻物のうち、合戦絵としては「平治物語絵巻」「蒙古襲来絵詞」「前九年合戦絵詞」「後三年合戦絵巻」が有名である。社寺縁起絵としては、「北野天神縁起絵巻」「春日権現験記絵巻」「石山寺縁起絵巻」「粉河寺縁起絵巻」などがあり、高僧伝絵としては、「法然上人絵伝」「一遍聖絵(一遍上人絵伝)」「西行物語絵巻」「鑑真和上東征絵伝」「玄奘三蔵絵」が知られる。その他、日記文学を題材とした「紫式部日記絵巻」や東国武士の生活をつたえる「男衾三郎絵巻」など、鎌倉時代は質・量ともに絵巻物全盛の時代となった。
大和絵の手法で実際の人物を写実的に描写した肖像画を似絵とよんでいる。似絵には、藤原隆信・信実父子や豪信らによる、軽快な線描の個性的な一連の名品がある。「後鳥羽上皇像」「花園天皇像」「伝源頼朝像・伝平重盛像・伝藤原光能像」「親鸞上人像」「北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像」などが代表作として知られる。
鎌倉時代の大和絵では、このように写実的性格の強い人物肖像画があらわれ、絵巻物のなかにも伝記物が登場するなど、肖像彫刻の隆盛などと合わせ、鎌倉文化における個人および個性に対する強い関心がうかがえる。
室町時代
室町時代中葉から戦国時代にかけて現れた土佐光信は、『十王図』『槻峰寺縁起絵巻』などで知られる。光信はまた、永正3年(1506年)、越前の朝倉貞景のために「京中図」を描いており、これが、洛中洛外図の文献上における初見である。光信は、このように公家や武家、寺社のため多くの作品を描き、大和絵の題材・技法・様式を拡大した。特に絵巻物に定評があり、従来の伝統的な絵巻のほか、当時「小絵」と呼ばれた小型絵巻を描いたことが知られる。さらに、後円融天皇像、桃井直詮像、伝足利義政像、三条西実隆像など肖像画の名品も光信筆と伝わるが、光信が肖像画を得意とすることは当時にあっても知られていたことが、同時代史料からも裏付けられている。
戦国・安土桃山時代
障壁画隆盛の桃山文化に大躍進を遂げた狩野派に対し、大和絵の名門であった土佐派は公家の衰微もてつだって16世紀中葉以降、著しく凋落した[2]。土佐派はまた、天下人の支援を受けた狩野派の宮廷への進出に対抗することができず、足利義昭邸の障壁画を描いた土佐光茂は、その晩年、京都を去って堺に移り住んだ[2]。その子の土佐光元は秀吉に従軍し、戦死した不運もあって、土佐派は宮廷絵所職の地位を失ってしまった[2]。
画像集
脚注
注釈
出典
- ^ 「世界美術小辞典22 日本編」『芸術新潮』掲載
- ^ a b c 守屋(2002)pp.64-65
参考文献
- 守屋正彦『すぐわかる日本の絵画』東京美術、2002年3月。ISBN 4-8087-0716-0。