カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン
ドン・カルロス・マリーア・イシドロ・ベニト・デ・ボルボーン・イ・ボルボーン=パルマ(Infante Don Carlos María Isidro Benito de Borbón y Borbón-Parma, 1788年3月29日 - 1855年3月10日)は、スペインの王位請求者。父はスペイン国王カルロス4世。母はマリア・ルイサ・デ・パルマ。兄はスペイン王フェルナンド7世。モリナ伯。
兄フェルナンドは嫡出の男子を持たず、4度目の結婚で王女を得たのみであった。スペイン・ブルボン家はサリカ法による継承を定めていたため、姪のイサベル王女でなく弟カルロスが王位を継承する予定であったが、1830年、フェルナンドはサリカ法を廃した。1833年にフェルナンドが死ぬと、イサベル2世が即位した。
スペインでは当時、ブルジョワの支持する自由主義派と、教会・貴族地主の反動派が政治対立を続けていたが、カルロスは後者と結託した。そのため、摂政マリア・クリスティナ王太后はブルジョワと結びついた。ここに7年にわたる内乱、カルリスタ戦争が発生することになった。1833年、カルロスはスペイン北部に政府を作って自らカルロス5世と称し、スマラカレギ、ラモン・カブレラ将軍を司令官として、政府軍と衝突し、最初は優勢を占めた。一時はマドリードに迫る勢いだった。しかし政府軍がバルドメロ・エスパルテロを将軍に迎え逆襲し、カルリスタ内で教会と軍の分裂が生じたため、次第に足並みが乱れ、1839年にスマラカレギに代わり将軍となったラファエル・マロトは、単独で政府とベルガラ協定を結んで休戦した。
カルロスはフランスのブールジュに亡命した。1845年には王位継承権を長子カルロス・ルイスに譲り、自らはイタリアに引退した。
この後もカルリスタはスペイン北部で勢力を保ち、19世紀を通じて政治勢力として存続し、王位請求活動をおこなった。
家族
1816年に、ポルトガル国王ジョアン6世の次女マリア・フランシスカと結婚した。実姉カルロッタ・ホアキナの娘であるため、カルロスとマリア・フランシスカとは叔父と姪の関係にあった。2人の間には3男が生まれた。
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