柳寛順
柳 寛順(ユ・ガンスンまたはグヮンスン、朝鮮語: 유관순、1902年11月17日 - 1920年10月12日)は日本統治時代の朝鮮で独立運動をした女性活動家。
柳寛順 | |
---|---|
肖像 逮捕時の写真 | |
各種表記 | |
ハングル: | 유관순 |
漢字: | 柳寛順 |
発音: | ユ・ガンスン |
ローマ字: | Yoo,Gwan-Soon |
生涯
以下の内容・観点は主に韓国の歴史教科書、韓国独立記念館等、韓国『独立運動史』(国家報勲処)によるものである。「梨花学堂の生徒だった」「『大韓独立万歳』と叫び病死した」ということは一次資料で確認できない。
幼年時代
1902年に忠清南道天安郡(現・天安市)龍頭里で生まれた。父は重権、母は李氏で、5人兄弟の2番目の娘である。幼少時代は縄跳びが上手で有名だった。父は開明的な人物であったが、"興護"という私立学校を設立したため、多額の借金を抱える貧しい家庭であった。
学生時代
1916年キリスト教メソジスト派の米国人女性宣教師アリス・シャープの援助によってソウル(当時、京城)の梨花学堂に給費生として入学した。梨花学堂に入学してから、入学できたことを寛順は天に感謝し、勉強、運動等を一所懸命に取り組んだ。また、洗濯を自分のものだけでなく学校内の他の人の衣服まで洗濯したり、自分の教室のみならず他の教室、部屋まできれいに掃除していたりしていた。このため先生、生徒の中でとても評判が良かった。
万歳運動~投獄
1919年2月21日の午後、高宗が崩御したという新聞の号外が町中にばら撒かれた。高宗は日本人によって毒殺されたという噂が流れ、人々は独立運動を起こそうとする動きが強まった、寛順と友人たちもこの独立運動に加わろうとした。
1919年、3・1独立運動が勃発し、寛順等は太極旗を高く揚げて万歳と叫んだ。この日以降、各地方では切れ目なく万歳運動が起こった。
朝鮮総督府から各学校に対して休校命令が下され、梨花学堂も休校となった。寛順は故郷の天安に帰り、教会関係者などを通じて万歳デモを計画した。そして、周辺の村に協力を求めるため、ふくらはぎが腫れて膨れ上がり、足に豆ができるほど数日間歩き回った。
4月1日、柳寛順は並川市場に集まった群集に独立運動の演説を行い、日本憲兵隊の集会中止命令も何度も無視して最後にはデモ行進に移った。日本憲兵隊はデモ鎮圧のために女性や老人などにも容赦なく発砲し、寛順の父母も流れ弾に当たって死亡する。
柳寛順は逮捕され、後にソウルの西大門刑務所に移送、1審で暴力デモを主導した罪で懲役3年が宣告されたが、控訴審裁判で寛順は裁判長と言い争いになり、裁判所の椅子を裁判長に投げつけるという事件を起した。この法廷内の事件によって法廷冒とく罪が適用され4年の刑期が追加求刑されたが、宣告された刑期は3年であった。柳寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、これが刑量になったが、減刑があり最終刑量は1年6ヶ月となった。しかし、その後も大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けた。1920年10月12日(9月28日 (旧暦))、デモ現場で負った傷と凄まじい拷問がもとで西大門刑務所内で「大韓独立万歳」と叫び、病死した。17歳の若さであった。梨花学堂ではこの知らせを聞いて、柳寛順の遺体引取りを刑務所に申し出ようと考えたが、独立運動組織と見られることを恐れて結局は誰も行動できなかったと言っている。
評価
韓国での評価
1962年韓国政府がその功績を認めて建国勲章を授与し、独立烈士と呼ばれるようになった。天安市の生家近くには柳寛順烈士記念祠堂が設けられ、ソウル特別市西大門区の刑務所も歴史館として一般公開されている。
キリスト教の韓国での一部会派には、「祖国解放と世界平和のために投獄された柳寛順烈士は、アジアのジャンヌ・ダルク。その意義を模範として、韓日両国の友好と韓半島統一の先頭に立つ」との見方より神聖化をはかる考え方もある。
資料上の記述による日本での評価
裁判所の公式記録である判決文(大正8年6月30日言い渡し)、柳寛順の囚人識別票の資料によれば、内乱罪の適用などは無く、懲役2年6ヶ月とされている。罪状も上の事実のうち主たる先導者であること、演説を行ったこと等は資料上からは確認できない。さらに、判決当日(取調べ中という説もあり)に行なったと言われる法廷侮辱罪や7年の求刑も裁判記録になく、前述の通り微罪による懲役二年六ヶ月の言い渡しを受け、控訴せずに、西大門刑務所に服役した記録のみである。拷問により死亡との説もあるが、これに対応する取調べ記録は残されていない。
また、一部韓国の主張には、柳寛順の四肢が切断されて箱に詰められたというものもあるが、そのような事実もなかったことが学友の証言で明らかになっている[1]。
なお、『朝鮮独立運動の血史』には彼女の名を見ることもできない。(写真は訳者の挿入)
柳寛順研究者の評価
柳寛順研究者によると、柳寛順の出生から死亡年月日、梨花学堂への入学年度などは不明であり、彼女の勇敢さや日本の蛮行については極端な誇張と証拠に基づかない空想が韓国では多くなされていると指摘している[1]。
故郷:天安の地域的特性
韓国には、「忠清道両班」という言葉があり、これは、忠清道が他の地域に比べて両班が多かったことを意味する。この両班はかつての朝鮮時代の特権階級であり、富裕層を構成していた。このことが、対日意識に影響したとする可能性が考えられる。
当時のアメリカでの監理教(メソジスト派)と長老教(長老派)の派閥争いが朝鮮にも飛び火し、1909年教団間の領土分割協定により、忠清道公州を基点に北側を監理教、南側を長老派が布教優先権を持つとされ、公州の北に位置する天安は監理教の管轄下に入った。
この地区の天安梅峰教会は、断髪令に抵抗する蜂起が起きた1905年、高宗廃位と軍隊解散により騒乱が起きた1907年と、鎮圧に当たった日本軍に2度も焼却されている。朝鮮総督府の集計によると(1919年4月の1ヶ月間)、天安郡での抗日蜂起11回、蜂起参加者6,400名、死亡者82名、負傷70名、被逮捕者189名。朝鮮全土に拡大した三・一独立運動だが、全体の死亡者553人のうちの82名が天安郡に集中している。
脚注
- ^ a b 「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」2002年2月26日『中央日報』 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "nippo"が異なる内容で複数回定義されています
参考文献
- 『独立運動史』韓国国家報勲処
- 『独立運動史資料集』韓国国家報勲処
- 『朝鮮独立運動の血史』(著者 朴殷植 翻訳 姜徳相) OD出版、平凡社 2004年9月 ISBN 4256802169
- 『朝鮮独立運動の血史 1 』 (著者 朴殷植 翻訳 姜徳相) 東洋文庫 214 ISBN 4582802141(平凡社 )
- 『朝鮮独立運動の血史 2 』 (著者 朴殷植 翻訳 姜徳相) 東洋文庫 216 ISBN 4582802168(平凡社 )
- 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年2月 ISBN 4582454313
- 『柳寛順(ユガンスン)の青い空』早乙女勝元 草の根出版会
外部リンク
- 「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」『中央日報』
- 西大門刑務所(写真)
- 獄中の柳寛順(写真)身長172cmの大身であったという
- 柳寛順(韓国独立記念館の説明)
- 柳寛順らの判決文