イランのユダヤ人

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イランにおけるユダヤ人:یهودیان ایران、ローマ字転写:Yahudi-ye Irani)は主に古代アケメネス朝時代のイラン(旧称ペルシア)に定住したユダヤ人ヘブライ人)を指すが、呼称としては本記事ではイラン出身のユダヤ人についてはユダヤ系イラン人(ペルシア人):Jewish Iranian/Persian]、現代のイスラエル国及びユダヤ人全体の文化・歴史について述べる場合はイラン系(ペルシア系)ユダヤ人[英:Iranian/Persian Jew]と表記する。

なお山岳ユダヤ人中央アジアのユダヤ人などはイラン系ユダヤ人の一部とみなされることがあるが、別個の集団である。

歴史

バビロン捕囚~アケメネス朝時代

イランにおけるユダヤ人の歴史は紀元前6世紀にまでさかのぼる。紀元前597年エホヤキン王の代に新バビロニアネブカドネザル2世ユダ王国の首都エルサレムに入城、その11年後ゼデキヤ王の傀儡政権の下ではエルサレムの神殿が破壊され、支配者や貴族たちを含む多くのユダヤ人たちは捕囚としてバビロンへ連行された(バビロン捕囚)。この頃ネブカドネザルに重用された預言者ダニエルスサ(現イラン領シューシュ)で没したとされていることから「シュシャン(スサ)のダニエル」と呼ばれている。(以上エレミヤ書37章、43章6、7節と第52章28~30節、エゼキエル書による。なお前述の2書とあわせて三大預言書と呼ばれる書の残りの1つイザヤ書の後編は、預言者イザヤ本人が活躍したとされる紀元前8世紀ではなく、ペルシアによる捕囚解放からエルサレム第2神殿建設までの前後に第2イザヤ、第3イザヤと呼ばれる別の人物によって書かれたとされる)

紀元前537年にアケメネス朝の王キュロス2世(クロス)が新バビロニアを倒した後、バビロンのユダヤ人を初めとする捕囚は解放され、祖国への帰還を許された。このとき42,462人のユダヤ人がペルシア領となったイスラエルの地に帰還し、サマリア地方にサトラップ(総督)が置かれた。

ダレイオス1世(ダリヨス)の統治下での紀元前515年ハガイゼカリヤの予言を受けたゼルバベルの指揮の下でユダヤ人たちは王の協力を得てエルサレムで第2神殿を建設した。その後ユダヤ総督に命じられたネヘミヤがエルサレムに帰還、街の城壁の修復を行った。紀元前458年に預言者エズラの指導のもとで2度目の集団帰還が行われた。(エズラ記ネヘミヤ記より)

エステル

アハシュエロス王(実在の王クセルクセス1世とされる。在位紀元前485年 - 紀元前465年)の統治下、ユダヤ人モルデカイの養女エステルは王妃ワシュティに代わる王の新しい妃となった。

その後大臣ハマンに対する敬礼をモルデカイが拒否したため、怒ったハマンは彼とエステルを含むユダヤ人を籤(プル、Pul)で決めたユダヤ暦第12月(アダル月とも。グレゴリオ暦では2月から3月の間)の13日に虐殺することにした。このときエステルはアハシュエロスにハマンの策略を暴露すると同時に自らの出自を明かし、王はハマンを処刑してユダヤ人の命を救い、モルデカイを昇進させた。後世のユダヤ人は彼女の功績を称え、アダル月14日と15日をプーリームの祭りと定めた。

エステル記(メギラー)より。なおエステルとモルデカイが実在したかどうかについては不明であるが、イラン西部のハマダーンには2人の墓とされる廟がある)

ヘレニズム時代

アレクサンドロス大王の侵攻とすぐ後のアケメネス朝の滅亡(紀元前330年)後、かつてのペルシア領内に住むユダヤ人たちは大王没後の後継者戦争により、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの権力争いの地となったイスラエルの住民やエジプトのそれを除き、多くがシリアの支配下に入った。

ハスモン家とパルティアの関係

紀元前166年にユダ・マカバイの率いるシリアに対する反乱によりユダヤ人はシリアから独立、ハスモン朝が始まったが、その約30年後にアンティオコス7世によってユダヤ人は再びシリアに隷属することとなる。紀元前129年にアンティオコスはパルティアを侵略するも敗れ戦死、ここにユダヤ人国家は復活するが、シリアによる征服の頃からパルティアにいたハスモン朝の王ヨハネ・ヒルカノス1世は、現地の君主と密約を交わしていたのだった。

セレウコス朝滅亡後、ポンペイウス率いるローマ軍はイスラエルに侵略、当時の王であったアリストブロス2世を捕らえてローマに連行、兄のヒルカノス2世を傀儡政権の君主に仕立て上げた。ところがヒルカノスは紀元前40年、パルティアの支援を受けた弟の遺児であるアンティゴノスによって捕らえられ、退位させられた。ここでパルティア領バビロンに住んでいたユダヤ人は追放されたヒルカノスを祭司の座に就かせようと考えたが、逆に当時のバビロンで内紛が起こりユダヤ人大司祭アナネルw:Ananel)がイスラエルに帰還するという出来事が起こった。

パルティア

パルティアは広大なイラン一体を支配したにも関わらず、政治は領内の属国をアルサケス氏(中国名:安息)が統率するという地方分権のような様態を示しており、異民族に対しては総じて寛大であった。1世紀にはアルベラ(現イラク領アルビール)に都を置いた属国アディアバネ王国の指導者層がユダヤ教に改宗し、エルサレム神殿の建設に資金を提供したという記録が残っている。

アレクサンドリアディアスポラで哲学者フィロンは、当時パルティア領であったバビロニアにはおびただしい数のユダヤ人が暮らしていたと残している。ローマとイスラエルによるユダヤ戦争の最中、70年のエルサレム陥落の際には多くのユダヤ人が東方へ亡命してきた。以降バビロンのユダヤ人はローマと対立するパルティアを支援し続け、当地の君主もユダヤ人の長にレシュ・ガルタ(アラム語:ריש גלותא、ローマ字転写:Resh Galuta。流浪の民の長)という称号を授けた。

ユダヤの学者たちは3世紀前期にパルティア領スラネハルデアプンベディタの学院でタルムードを編纂した。しかしパルティアが崩壊した後、中央集権的でゾロアスター教を熱心に奉じるサーサーン朝によりスラの学院は259年に閉鎖、取り壊されることとなる。

サーサーン朝

226年アルダシール1世がパルティアを倒してサーサーン朝を建て、ゾロアスター教を国教に定めると、マニ教仏教など他宗教に対する弾圧が始まり、ユダヤ教もその例外ではなくなった。しかし息子のシャープール1世は一転してユダヤ人に対して寛容であり、彼らの共同体の育成を進めた。

4世紀に帝国の黄金期を築き上げたシャープール2世は母親がユダヤ人の生まれであり、帝国内のユダヤ人に対する信教の自由を認め、圧力をかけないよう法律を改正した。

初期イスラーム

639年カディシーヤの戦い644年ニハーヴァンドの戦いアラブ人のイスラーム教徒がペルシア軍を破った直後にサーサーン朝は滅亡、イスラームによる支配が行われるようになった。同時にシャリーア法の適用によりユダヤ人はキリスト教徒と同じくズィンミー啓典の民)と呼ばれ、信仰の自由は以前と同じく保護され、同時期のヨーロッパで迫害されていたユダヤ人より格段によい扱いを受けていたが、それと引換えにジズヤ人頭税)やハラージュ(土地税)を取られることとなった。

イスラーム教徒による征服後のイランでは、ユダヤ人は医師、学者、職人などの職について生計を立てており、天文学者マーシャーアッラーのような優れた学者たちは君主に重んじられた。

主なイランのユダヤ人

旧約聖書時代~サーサーン朝

中世

近現代

関連項目