関山慧玄

1277-1361, 鎌倉時代末期~南北朝時代の臨済宗の僧。

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関山 慧玄かんざん えげん建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日1361年1月19日)は、鎌倉時代末期の臨済宗

信濃国(長野県)の出身で、家は信濃源氏の一族とされる。朝廷から本有円成,仏心,覚照,大定聖応,光徳勝妙,自性天真,放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師追諡された。 

略歴

1307年鎌倉建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什,巨山志源などに参禅。その後帰郷。

建長寺開山 蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329年に雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。

その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、のち美濃の伊深に草庵を結んで隠棲した。

1337年花園上皇は、離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。宗峰が関山を推挙し、関山は妙心寺開山となった。

禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、法嗣は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。

1360年12月12日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。

関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、今日の関山像は後世に作成された物である。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴が出て大いに繁栄し、他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日に伝えている。