ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ
リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(Louis François Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu, 1696年3月13日 - 1788年8月8日)は、ブルボン朝3代に仕えたフランスの貴族、軍人。リシュリュー枢機卿の大甥。同時代のデギュイヨン公爵リシュリューは甥。どちらも元帥の称号を持つので紛らわしいが、歴史書では、より有名なこちらの人物をリシュリュー元帥と、甥の方はデギュイヨン公爵と記す場合が多い。
概歴
スペイン継承戦争の終盤、ヴィラール元帥のもとでランドルシー解囲戦に参戦する。その後ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争に参加している。七年戦争でミノルカ攻略を計画、指揮した他、七年戦争はドイツ戦線の司令官をデストレ元帥から引き継いでいるが、軍人としての評価は高くないが、摂政時代にスペインへの寝返りを策したこともあるなど、陰謀は得意だったようだ。
リシュリューについて有名なのは様々な逸話、とくにその女性関係とルイ15世の愛妾に関わる話である。彼は当代きっての放蕩児と知られ、美人を見れば求め、また求められた。バスティーユ要塞には3度も入っている。似たもの同士のカサノヴァとの交友もよく知られている。
内廷侍従長職を長期に渡って務めていたリシュリューは、ルイ15世にネール姉妹を斡旋した首謀者と見なされており、ことにシャトールー公爵夫人との関係は密接だった。ポンパドゥール夫人が勢力を振るうようになるとはじめはこれに抵抗したが後に抵抗の不利を悟って恭順の姿勢を示した。七年戦争のまずい指揮でしばらく政治活動ができなかったが、ポンパドゥール夫人の死去後その後釜にデュ・バリー夫人を据えることに成功して復活した。
実はアカデミー・フランセーズの一員で、ヴォルテールとの交流深く、ジャン=ジャック・ルソーとも知り合いだった。
前任 フィリップ・ド・ダンジョー |
アカデミー・フランセーズ 席次32 第4代:1720年 - 1788年 |
後任 フランソワ=アンリ・ダルクール |