中村俊輔
中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、日本のサッカー選手である。ポジションはミッドフィールダー。J1、横浜F・マリノス所属。元日本代表。
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名前 | ||||||
愛称 | 俊さん(日本)、NAKA(海外) | |||||
カタカナ | ナカムラ シュンスケ | |||||
ラテン文字 | NAKAMURA Shunsuke | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1978年6月24日(46歳) | |||||
出身地 | 神奈川県横浜市戸塚区 | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 73kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 横浜F・マリノス | |||||
ポジション | MF (OH, RSH) | |||||
背番号 | 25 | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1997-2002 2002-2005 2005-2009 2009-2010 2010- |
横浜M / 横浜FM レッジーナ セルティック エスパニョール 横浜F・マリノス |
148 (33) 81 (11) 128 (29) 13 (0) | ||||
代表歴2 | ||||||
2000-2010 | 日本 | 98 (24) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2010年1月16日現在。 2. 2010年7月1日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
2000年にJリーグMVPを日本人選手として最年少の22歳で獲得、ほかにアジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどの受賞がある。
来歴
学生時代
深園SCに入団、サッカーを始める。横浜市立深谷中学校(横浜市戸塚区)時代には日産(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースのエースとして実質全国優勝を果たすも[1]ユースへ昇格が出来ず[2]、ジュニアユース時代の先輩に誘われて桐光学園高等学校へ進学しサッカー部に所属[3]、高校2年の全国高校サッカー選手権で頭角を現し、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝を収めた[4]。またアジアユースにも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場した。
Jリーグでの活躍
1997年、横浜マリノスに入団。同年のワールドユースに出場。1997年のJリーグ優秀新人賞を受賞する。
1999年、Jリーグベストイレブンを初受賞する。
2000年、U-23代表の主力としてシドニーオリンピックに出場。同年、日本人選手最年少でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞。A代表にも初招集され、アジアカップでは優勝とベストイレブンを受賞、日本代表として定着していった。
セリエA・レッジーナ移籍
</includonly> 2002年5月、日韓W杯本大会メンバーへの召集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[6]。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAのレッジーナに移籍。レギュラーを確保しキッカーを任され、7得点(うちPK5得点)をあげてセリエA残留に貢献した。
2003年6月、コンフェデレーションズカップフランス大会で、3得点をあげ『ブロンズシューズ賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したがコンディションを崩してしまったこと故障を繰り返したことが響いてリーグ戦出場は激減してしまった。
2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子の紹介で知り合ったタレント経験のある元ペットショップ店員と結婚。同年7月、8月に行われたアジアカップ中国大会では、最優秀選手に選ばれた。
セリエA3年目となる2004-05シーズンは、終盤数戦こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼスターティングメンバーとして戦いクラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年6月、コンフェデレーションズカップドイツ大会で、1得点2アシストをあげベストイレブンに選出[7]。セルティックの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。
セルティック移籍
セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグ(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍。(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。
6月、ドイツW杯に選出された。中村は、当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが偶然にも直接得点となり、自身のW杯での初得点となったが、全般的に見てW杯でのパフォーマンスは低調に終わった。
9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった[8]。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初[9]、日本人選手としても初めての快挙である[10]。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた[11]。
2007年3月24日、キリンチャレンジカップ・ペルー戦は、オシムジャパン発足してからの初選出となり、2アシストで勝利に貢献した。4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった[12]。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞[13]も獲得した。アジアの人間が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙である。また、2007年のバロンドール候補にもノミネートされた[14]。
エスパニョール移籍
2009年6月22日、横浜Fマリノスなどのオファーを断り、スペインの1部リーグ、リーガエスパニョーラのエスパニョールへの移籍が決定した[15]。Goal.comが報じたところによると、「日本人ミッドフィルダーには大きな期待が寄せられたが、スペインでの最初のシーズンはうまくはいかなかった[16]。」 ポッチェッティーノは中村がエスパニョールで本来のプレーをすることができなかった理由として、「適応」(西: adaptación[17])を挙げた[18]。セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否[19]、代理人が説得へ向かうも中村が拒否したことで、エスパニョールに残留する事となった。2010年2月28日、かつて所属した横浜Fマリノスに移籍が決まった[20]。
マリノス復帰
Jリーグ復帰後は、第2節湘南ベルマーレ戦でCKから1アシスト、続く第3節川崎フロンターレ戦ではCKから1アシストとロングシュートで1得点を決めている。 同年5月10日、2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会の代表メンバーに選出された。壮行試合の韓国戦後に左足首の怪我を自己申告[21]、その後岡田武史監督が守備的な戦術に転換したため、5月30日に行われた親善試合のイングランド戦以降は右サイドハーフのポジションを本来左サイドである松井大輔に奪われ、本大会のグループリーグ3試合および決勝トーナメント1試合ではスタメン出場を果たせず、グループリーグ第2戦のオランダ戦の後半から、1点ビハインドの場面で中盤の右サイドで途中出場したが、センターサークル付近でのタックルによりボールを奪われ二度のカウンターの起点となり、ゴールキーパーとの1対1の決定機を作られるなど、流れは変えられず[22]、国外メディアでは凡庸でチームを危機に陥らせたという声が上がったが[23]、中村自身は「落ち着かせる仕事はできた」と自らを評した[24]。Jリーグ再開後、8月上旬までは中盤の選手でありながらリーグ内でシュート数一位であったが、シュート数に反比例してゴール率は下位であり、18節にFKでゴールするまではゴール率は下から3番目であった[25]。結局、2010年シーズンのFKからのゴールはリーグ戦では1ゴールのみで、ゴール・アシスト共に前年度のスタメンであった狩野健太と、ほぼ変わらない成績で終わった。しかし、フリーランなどのボールタッチ以外でのプレーが評価されないOptaによるStats Stadiumでの週間ベストイレブンは15回であった[26]が、アシストやゴールが無く負けた試合でもベストイレブンに入ることが多く、逆にサッカーダイジェストなどのサッカー専門誌などでは週間ワーストイレブンに選ばれることが多かった。 高額の移籍金と年俸で、エスパニョールから横浜F・マリノスへ加入した中村であったが、チームは前年よりわずかに順位を上げ2010年度シーズンは8位で終わり、2007年度の7位を越えることはできず、天皇杯は前年度と変わらず4回戦敗退、ナビスコカップは2002年以来8年ぶりの予選リーグ敗退と、中村はチームを牽引することも起爆剤となることもできなかった。
2011年1月25日、チームは中村俊輔のキャプテン就任を発表し、本人はその中でキャプテン就任について「光栄な事」と語った[27]。3月29日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!にドラガン・ストイコビッチ率いるJリーグ TEAM AS ONEの一員として参加した[28]。
プレースタイル
プレースキックの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている[29]。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォーム(右の写真参照)である。元々は大きく弧を描くキックを得意としていたが、レッジーナ移籍後からはスピードに重点を置いたキックを多用している[30]。
プロサッカー関係者の評価
やべっちFCにて直接対談した名波浩は、中村が代表合宿に初招集された98年2月のオーストラリア遠征では19歳という年齢ながら当時の代表メンバーを1対1で圧倒していたことを語っていた[5] 。
レッジーナ時代には、監督のマッツァーリは「中村はバッジオのようなもので、FWもできるし、MFもできる。素質のある選手はDFを抜くこともパスも出せるんだ。」と評した[31]。プランデッリは中村について「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」と評した[32]。
セルティック時代には、指揮官であるストラカンは「彼は天才だ。」という言葉を残し、また巷でタックルができない選手だと批判されていることについて疑問を呈した[33]。チームメイトであったドナーティは「ナカは技術面ではチームでナンバー1だ。他にもマクギーディやブラウンら上手い選手はいるけど、ナカは別格」と述べている[34]。
代表歴
出場大会など
各本大会での成績は以下の通り。
年代別代表[36]
- U-20代表
- 1996年 AFCユース選手権韓国大会 ベスト4 6試合出場 1得点
- 1997年 FIFAワールドユースマレーシア大会 ベスト8 5試合出場 1得点
- U-23代表
- 1998年 アジア大会 2次リーグ敗退 3試合出場 1得点
- 2000年 シドニーオリンピック ベスト8 4試合出場 0得点
A代表[37]
- 2000年 アジアカップレバノン大会 優勝
- 2003年 コンフェデレーションズカップフランス大会 グループリーグ敗退
- 2004年 アジアカップ中国大会 優勝
- 2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会 グループリーグ敗退
- 2006年 ワールドカップドイツ大会 グループリーグ敗退
- 2007年 アジアカップ2007 ベスト4
- 2010年 2010 FIFAワールドカップ ベスト16
試合数
- 国際Aマッチ 出場試合数98 先発出場試合数89 交代出場試合数9 得点24 警告7 退場0 (2000年 - 2010年)[37]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
2000 | 16 | 3 |
2001 | 1 | 0 |
2002 | 6 | 2 |
2003 | 8 | 4 |
2004 | 15 | 3 |
2005 | 11 | 2 |
2006 | 6 | 2 |
2007 | 10 | 4 |
2008 | 9 | 2 |
2009 | 11 | 2 |
2010 | 5 | 0 |
通算 | 98 | 24 |
ゴール
通算得点数 | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 試合結果 | 試合概要 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2000年2月16日 | 中国 | ブルネイ | ○ 9-0 | AFCアジアカップ2000予選 | [4] |
2 | 2000年6月11日 | 日本 | スロバキア | △ 1-1 | キリンカップ | [5] |
3 | 2000年8月16日 | 日本 | アラブ首長国連邦 | ○ 3-1 | キリンチャレンジ2000 | [6] |
4,5 | 2002年5月2日 | 日本 | ホンジュラス | △ 3-3 | キリンカップ 2得点 | [7] |
6 | 2003年3月28日 | 日本 | ウルグアイ | △ 2-2 | 親善試合 | [8] |
7,8 | 2003年6月18日 | フランス | ニュージーランド | ○ 3-0 | FIFAコンフェデレーションズカップ2003 2得点 | [9] |
9 | 2003年6月20日 | フランス | フランス | ● 1-2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2003 | [10] |
10 | 2004年6月9日 | 日本 | インド | ○ 7-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 | [11] |
11 | 2004年7月20日 | 中国 | オマーン | ○ 1-0 | AFCアジアカップ2004 | [12] |
12 | 2004年7月24日 | 中国 | タイ | ○ 4-1 | AFCアジアカップ2004 | [13] |
13 | 2005年6月22日 | ドイツ | ブラジル | △ 2-2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 | [14] |
14 | 2005年9月7日 | 日本 | ホンジュラス | ○ 5-4 | キリンチャレンジカップ | [15] |
15 | 2005年10月8日 | ラトビア | ラトビア | △ 2-2 | 親善試合 | [16] |
16 | 2006年6月12日 | ドイツ | オーストラリア | ● 1-3 | 2006 FIFAワールドカップ | [17] |
17 | 2007年7月13日 | ベトナム | アラブ首長国連邦 | ○ 3-1 | AFCアジアカップ2007 | [18] |
18 | 2007年7月16日 | ベトナム | ベトナム | ○ 4-1 | AFCアジアカップ2007 | [19] |
19,20 | 2007年9月11日 | オーストリア | スイス | ○ 4-3 | 親善試合 2得点 | [20] |
21 | 2008年6月2日 | 日本 | オマーン | ○ 3-0 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 | [21] |
22 | 2008年9月6日 | バーレーン | バーレーン | ○ 3-2 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 | [22] |
23 | 2009年3月28日 | 日本 | バーレーン | ○ 1-0 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 | [23] |
24 | 2009年11月18日 | 香港 | 香港 | ○ 4-0 | AFCアジアカップ2011 (予選) | [24] |
タイトル
クラブタイトル
- 横浜Fマリノス[38]
- セルティックFC[39]
- スコティッシュ・プレミアリーグ:3回 (2005-06、2006-07、2007-08)
- スコティッシュカップ:1回 (2006-07)
- スコティッシュリーグカップ:2回 (2005-06、2008-09)
個人タイトル
- Jリーグ優秀新人賞 (1997年)
- Jリーグ優秀選手賞:3回 (1999年 - 2001年)
- Jリーグベストイレブン:2回 (1999年 - 2000年)
- Jリーグ最優秀選手賞1回 (2000年)
- 日本年間最優秀選手賞:1回 (2000年)
- AFC All Star Team (2000年)
- AFCアジアカップベストイレブン:2回 (2000年、2004年)
- AFCアジアカップ MVP:1回 (2004年)
- スコットランドPFA年間最優秀選手賞:1回 (2006-07)
- スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞:1回 (2006-07)
- スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン:1回 (2006-07)
- スコットランドリーグスポンサー年間最優秀選手賞:1回 (2006-07)
- スコティッシュプレミアリーグ年間ベストゴール:1回 (2006-07 ダンディユナイテッド戦)
- セルティック・ゴール・オブ・ザ・シーズン:1回 (2007-08 レンジャーズ戦)
その他
- 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (2000年)
- 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門:1回 (2000年)
経歴
- 1997年3月8日 公式戦初出場 - ナビスコカップ予選 vsヴェルディ川崎戦 (国立競技場)
- 1997年4月16日 Jリーグ初出場 - J 1st第2節 vsガンバ大阪戦 (横浜国際総合競技場)
- 1997年5月3日 Jリーグ初得点 - J 1st第6節 vsベルマーレ平塚戦 (三ツ沢競技場)
- 1998年11月14日 ハットトリック達成 - J 2nd第17節 vsベルマーレ平塚戦 (横浜国際総合競技場)
- 2000年2月13日 A代表初出場 - アジアカップ予選 vsシンガポール戦 (マカオ)
- 2000年2月16日 A代表初得点 - アジアカップ予選 vsブルネイ戦 (マカオ)
- 2002年8月18日 セリエA初出場・初得点 - コッパ・イタリア予選 vsターラント戦 (ターラント)
- 2005年8月6日 スコティッシュ・プレミアリーグ初出場 - スコティッシュ・プレミアリーグ第2節 vsダンディー・ユナイテッド (セルティック・パーク)
- 2005年8月28日 スコティッシュ・プレミアリーグ初得点 - スコティッシュ・プレミアリーグ第5節 vsダンファームリン (イースト・エンド・パーク)
- 2006年9月13日 UEFAチャンピオンズリーグ初得点[40] - グループリーグ第1戦 vsマンチェスター・ユナイテッド戦 (オールド・トラフォード)
所属クラブ
ユース経歴
プロ経歴
- 1997年 - 2002年7月 横浜マリノス (現・横浜F・マリノス)
- 2002年8月 - 2005年7月 レッジーナ
- 2005年8月 - 2009年6月 セルティックFC
- 2009年6月 - 2010年2月 RCDエスパニョール
- 2010年2月 - 現在 横浜F・マリノス
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | 横浜M | 25 | J | 27 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 31 | 5 |
1998 | 33 | 9 | 4 | 1 | 0 | 0 | 37 | 10 | |||
1999 | 横浜FM | 10 | J1 | 26 | 7 | 4 | 0 | 3 | 1 | 33 | 8 |
2000 | 30 | 5 | 4 | 1 | 2 | 0 | 36 | 6 | |||
2001 | 24 | 3 | 6 | 2 | 1 | 0 | 31 | 5 | |||
2002 | 8 | 4 | - | - | 8 | 4 | |||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2002-03 | レッジーナ | 10 | セリエA | 32 | 7 | 4 | 1 | - | 36 | 8 | |
2003-04 | 16 | 2 | 2 | 0 | - | 18 | 2 | ||||
2004-05 | 33 | 2 | 0 | 0 | - | 33 | 2 | ||||
スコットランド | リーグ戦 | S・リーグ杯 | スコティッシュ杯 | 期間通算 | |||||||
2005-06 | セルティック | 25 | S・プレミア | 33 | 6 | 4 | 0 | 1 | 0 | 38 | 6 |
2006-07 | 37 | 9 | 0 | 0 | 5 | 0 | 42 | 9 | |||
2007-08 | 26 | 6 | 0 | 0 | 4 | 1 | 30 | 7 | |||
2008-09 | 32 | 8 | 3 | 1 | 2 | 0 | 37 | 9 | |||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2009-10 | エスパニョール | 7 | プリメーラ | 13 | 0 | 2 | 0 | - | 15 | 0 | |
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2010 | 横浜FM | 25 | J1 | 32 | 5 | 1 | 0 | 2 | 1 | 35 | 6 |
通算 | 日本 | J1 | 180 | 38 | 22 | 4 | 9 | 2 | 211 | 44 | |
イタリア | セリエA | 81 | 11 | 6 | 1 | - | 87 | 12 | |||
スコットランド | S・プレミア | 128 | 29 | 7 | 1 | 12 | 1 | 147 | 31 | ||
スペイン | プリメーラ | 13 | 0 | 2 | 0 | - | 15 | 0 | |||
総通算 | 402 | 78 | 37 | 6 | 21 | 3 | 460 | 87 |
その他の公式戦
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2003年
- セリエA 残留・昇格プレーオフ 1試合0得点
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ 予備予選3回戦 2試合0得点
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国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
UEFA | UEFA CL | |||
2006-07 | セルティック | 25 | 8 | 2 |
2007-08 | 4 | 0 | ||
2008-09 | 5 | 0 | ||
通算 | UEFA | 17 | 2 |
出演
- GET SPORTS (テレビ朝日)
- ドラえもん (テレビ朝日) W杯の特別企画で、絵かき歌に挑戦した。
CM
- 日本コカ・コーラ
- アクエリアス (2001年)
- 日本ビクター
- キリンビール
- adidas
- 『サッカー狂症候群 中村俊輔篇』(2002年)
- 『+10 中村俊輔+10 vs デルピエロ+10篇』(2006年) - アレッサンドロ・デル・ピエロとの共演
- 『JOSE+10』(2006年)
- ファミリーマート
- アダムス
- 「リカルデント」(2003年)
- 大塚製薬
- コナミ
- 「ウイニングイレブン9」(2005年) - ジーコとの共演
- 「ウイニングイレブン10」(2006年) - ジーコとの共演
- ヤマダ電機 (2006年 - )
- 『For Your JUST篇』
- 『ヤマダに新戦力篇』
- シュガーレディー (2006年) - 稲本潤一との共演
- TOYOTA 「トビラを開けよう」キャンペーン (2006年)
- AIDEM 「i のある仕事を」キャンペーン (2006年 - 2008年)
- スバル「エクシーガ」 (2009年 - )
- コーセー「adidas skin protection」(2010年)
- 中村俊輔本人をイメージした香水、「メシア10」の広告など他多数
PV出演
- Hi-Fi CAMP 「だから一歩前に踏み出して」(2009年)
出版
執筆書籍
- 2005年 Ciao! - 中村俊輔イタリア日記(ソニーマガジンズ)ISBN 4-7897-2539-1
- 2008年 察知力(幻冬舎)ISBN 4-3449-8081-6
- 2009年 夢をかなえるサッカーノート(文藝春秋)ISBN 4-1637-1740-4
関連書籍
- 2000年 中村俊輔 - 世界へはなつシュート(旺文社、北条正士)ISBN 4-01-072495-1
- 2001年 シュンスケ! - 中村俊輔ファンタジスタへの予感(小学館)ISBN 4-09-102343-6
- 2001年 天才レフティー、中村俊輔(ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ)ISBN 4-86204-010-1
- 2002年 中村俊輔 飛翔 (ラインブックス、中村俊輔担当記者グループ)ISBN 4-89809-106-7
- 2002年 中村俊輔 リスタート (文藝春秋、佐藤俊)ISBN 4-16-358840-X
- 2003年 黄金のカルテット 中村俊輔物語(汐文社、本郷陽二)ISBN 4-8113-7644-7
- 2003年 海を渡ったヒーローたち - 中村俊輔・稲本潤一・小野伸二・中田英寿(汐文社、本郷陽二)ISBN 4-8113-7654-4
- 2003年 『プライド』 中村俊輔 オフィシャルドキュメントブック(ソニー・マガジンズ、藤沼正明)ISBN 4-7897-2162-0
- 2004年 中村俊輔 栄光への疾走(鹿砦社、中村俊輔取材班)ISBN 4-8463-0559-7
- 2005年 SHUNSUKE 中村俊輔 イタリアの軌跡(朝日新聞社、アルフレード・ペドゥッラ)ISBN 4-02-261474-9
- 2006年 中村俊輔フォトブック 「NAKAMURA SHUNSUKE」(ワニマガジン社、横内禎久)ISBN 4-89829-757-9
- 2007年 LEGEND OF THE ATHLETE 中村俊輔物語(集英社、工藤晋・大内冬樹)ISBN 4-08-874357-1
- 2007年 ファンタジスタ中村俊輔(汐文社、本郷陽二)ISBN 4-8113-8425-3
- 2007年 中村俊輔世界をかける背番号10(ファンタジスタ)(学習研究社、矢内由美子)ISBN 4-05-202814-7
DVD
- SHUNSUKE
- FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
- 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
- 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005
- セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡
脚注
- ^ ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった(『中村俊輔物語』より)。
- ^ 中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが(著書 察知力)、当時の担当者は160cmに満たない身長が原因だったと述懐している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技で補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。
- ^ 1学年上には須藤大輔、同級生に佐原秀樹、1学年下に宇留野純や井手口純がいる。
- ^ この時、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のサポーターが応援に来た。
- ^ a b 俊輔の代表初選出に、先輩選手は“アイツ何なの”? Sports Watch、2009年4月18日
- ^ “Will home beckon Celtic's Japanese star Nakamura?”. ニューヨーク・タイムズ (2009年3月1日). 2011年4月3日閲覧。
- ^ ドイツキッカー誌の選定による。
- ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の奥寺康彦。
- ^ UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。
- ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に奥寺康彦が進出している。
- ^ スポーツ報知 (2006年10月15日). “俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ”. 2009年3月1日閲覧。
- ^ 近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がセリエA・ASローマで優勝。
- ^ ダンディーユナイテッド戦のループシュート。
- ^ 日本人としては、中田英寿、稲本潤一に次ぎ3人目。
- ^ Shunsuke Nakamura to leave Celtic for Espanyol guardian.co.uk 2009年6月22日、2011年4月15日閲覧。
- ^ Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The SeasonGoal.com 2009年12月29日、2011年4月15日閲覧。
- ^ El conflicto Nakamura EL PAÍS.com 2010年2月11日、2011年4月15日閲覧。 "Es un problema claro y contundente de aclimatación"「環境への順応に問題があったことは明らかだ。」というポチェッティーノの発言が引用されている。
- ^ 必要とされなかったファンタジスタ (1/2)中村俊輔がスペインで活躍できなかった理由 スポーツナビ、2010年3月1日、2011年4月15日閲覧。
- ^ 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ - Goal.com、2010年2月2日
- ^ 中村俊輔「スペイン挑戦は失敗だと思わない」 (1/2)横浜F・マリノス入団会見 スポーツナビ 2010年2月28日、2011年4月15日閲覧。
- ^ ごまかせなかった…俊輔すっかり自信喪失、スポニチ、2010年05月25日
- ^ 俊輔不発…後半途中初出場も流れ変えられず、デイリースポーツ、2010年6月20日
- ^ 中村俊輔選手に批判も、W杯日本vs.オランダの中国メディアの反応は? livedoorsport2010年06月20日
- ^ 俊輔 代表引退認める「うん、そうだよ」、スポニチ、2010年7月1日
- ^ ニュース&すぽると!2010年8月8日
- ^ Stats Stadium
- ^ 2011シーズン キャプテン決定のお知らせ 横浜Fマリノス 2011年1月25日。同年4月11日閲覧。
- ^ マッチレポート 日本サッカー協会 2011年3月29日。同年4月11日閲覧。
- ^ THE LIST: Nos 40-31 of the greatest free-kick kings in history-Daily Mail 2009年 4年 7日
- ^ [1]中村俊輔らW杯を彩るFKの名手たち 2006年06月11日
- ^ [2] 指揮官絶賛「俊輔はバッジオ」 – SerieA.jp、2004年9月14日
- ^ 中田、中村が前日練習 8日に直接対決 ? 共同通信、2002年12月7日
- ^ [3]-Celtic Secure Second Successive Championship! 2007/04/25
- ^ 俊輔同僚「ナカムラのテクニックはチーム一だ」 ? 欧州通信、2007年10月3日
- ^ 必要とされなかったファンタジスタ ? スポーツナビ、2010年3月1日
- ^ 中村俊輔 日本サッカー協会 2011年4月13日閲覧。
- ^ a b 選手情報 中村俊輔 日本サッカー協会 最終更新日2010年06月29日 2011年4月13日閲覧。
- ^ クラブヒストリー 横浜Fマリノス 2011年4月13日閲覧。
- ^ brief history Celtic Football Club 2011年4月13日閲覧。
- ^ 1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。