中村俊輔

日本のサッカー選手 (1978-)

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中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、日本サッカー選手である。ポジションはミッドフィールダーJ1横浜F・マリノス所属。元日本代表。

中村 俊輔
名前
愛称 俊さん(日本)、NAKA(海外)
カタカナ ナカムラ シュンスケ
ラテン文字 NAKAMURA Shunsuke
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1978-06-24) 1978年6月24日(46歳)
出身地 神奈川県横浜市戸塚区
身長 178cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 横浜F・マリノス
ポジション MF (OH, RSH)
背番号 25
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2002
2002-2005
2005-2009
2009-2010
2010-
日本の旗 横浜M / 横浜FM
イタリアの旗 レッジーナ
スコットランドの旗 セルティック
スペインの旗 エスパニョール
日本の旗 横浜F・マリノス
148 (33)
81 (11)
128 (29)
13 0(0)
代表歴2
2000-2010 日本の旗 日本 98 (24)
1. 国内リーグ戦に限る。2010年1月16日現在。
2. 2010年7月1日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

2000年JリーグMVPを日本人選手として最年少の22歳で獲得、ほかにアジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどの受賞がある。

来歴

学生時代

深園SCに入団、サッカーを始める。横浜市立深谷中学校(横浜市戸塚区)時代には日産(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースのエースとして実質全国優勝を果たすも[1]ユースへ昇格が出来ず[2]、ジュニアユース時代の先輩に誘われて桐光学園高等学校へ進学しサッカー部に所属[3]、高校2年の全国高校サッカー選手権で頭角を現し、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝を収めた[4]。またアジアユースにも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場した。

Jリーグでの活躍

1997年横浜マリノスに入団。同年のワールドユースに出場。1997年のJリーグ優秀新人賞を受賞する。

1998年初頭にはA代表合宿に初参加する[5]

1999年Jリーグベストイレブンを初受賞する。

2000年U-23代表の主力としてシドニーオリンピックに出場。同年、日本人選手最年少でJリーグ最優秀選手賞日本年間最優秀選手賞を受賞。A代表にも初招集され、アジアカップでは優勝とベストイレブンを受賞、日本代表として定着していった。

セリエA・レッジーナ移籍

</includonly> 2002年5月、日韓W杯本大会メンバーへの召集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[6]。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAレッジーナに移籍。レギュラーを確保しキッカーを任され、7得点(うちPK5得点)をあげてセリエA残留に貢献した。

2003年6月、コンフェデレーションズカップフランス大会で、3得点をあげ『ブロンズシューズ賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したがコンディションを崩してしまったこと故障を繰り返したことが響いてリーグ戦出場は激減してしまった。

2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子の紹介で知り合ったタレント経験のある元ペットショップ店員と結婚。同年7月、8月に行われたアジアカップ中国大会では、最優秀選手に選ばれた。

セリエA3年目となる2004-05シーズンは、終盤数戦こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼスターティングメンバーとして戦いクラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年6月、コンフェデレーションズカップドイツ大会で、1得点2アシストをあげベストイレブンに選出[7]セルティックの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。

セルティック移籍

セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグ(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍。(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

6月、ドイツW杯に選出された。中村は、当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが偶然にも直接得点となり、自身のW杯での初得点となったが、全般的に見てW杯でのパフォーマンスは低調に終わった。

9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった[8]。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初[9]、日本人選手としても初めての快挙である[10]。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた[11]

2007年3月24日、キリンチャレンジカップペルー戦は、オシムジャパン発足してからの初選出となり、2アシストで勝利に貢献した。4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった[12]。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞[13]も獲得した。アジアの人間が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙である。また、2007年のバロンドール候補にもノミネートされた[14]

エスパニョール移籍

2009年6月22日、横浜Fマリノスなどのオファーを断り、スペインの1部リーグ、リーガエスパニョーラのエスパニョールへの移籍が決定した[15]。Goal.comが報じたところによると、「日本人ミッドフィルダーには大きな期待が寄せられたが、スペインでの最初のシーズンはうまくはいかなかった[16]。」 ポッチェッティーノは中村がエスパニョールで本来のプレーをすることができなかった理由として、「適応」(西: adaptación[17])を挙げた[18]。セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否[19]、代理人が説得へ向かうも中村が拒否したことで、エスパニョールに残留する事となった。2010年2月28日、かつて所属した横浜Fマリノスに移籍が決まった[20]

マリノス復帰

Jリーグ復帰後は、第2節湘南ベルマーレ戦でCKから1アシスト、続く第3節川崎フロンターレ戦ではCKから1アシストとロングシュートで1得点を決めている。 同年5月10日、2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会の代表メンバーに選出された。壮行試合の韓国戦後に左足首の怪我を自己申告[21]、その後岡田武史監督が守備的な戦術に転換したため、5月30日に行われた親善試合のイングランド戦以降は右サイドハーフのポジションを本来左サイドである松井大輔に奪われ、本大会のグループリーグ3試合および決勝トーナメント1試合ではスタメン出場を果たせず、グループリーグ第2戦のオランダ戦の後半から、1点ビハインドの場面で中盤の右サイドで途中出場したが、センターサークル付近でのタックルによりボールを奪われ二度のカウンターの起点となり、ゴールキーパーとの1対1の決定機を作られるなど、流れは変えられず[22]、国外メディアでは凡庸でチームを危機に陥らせたという声が上がったが[23]、中村自身は「落ち着かせる仕事はできた」と自らを評した[24]。Jリーグ再開後、8月上旬までは中盤の選手でありながらリーグ内でシュート数一位であったが、シュート数に反比例してゴール率は下位であり、18節にFKでゴールするまではゴール率は下から3番目であった[25]。結局、2010年シーズンのFKからのゴールはリーグ戦では1ゴールのみで、ゴール・アシスト共に前年度のスタメンであった狩野健太と、ほぼ変わらない成績で終わった。しかし、フリーランなどのボールタッチ以外でのプレーが評価されないOptaによるStats Stadiumでの週間ベストイレブンは15回であった[26]が、アシストやゴールが無く負けた試合でもベストイレブンに入ることが多く、逆にサッカーダイジェストなどのサッカー専門誌などでは週間ワーストイレブンに選ばれることが多かった。 高額の移籍金と年俸で、エスパニョールから横浜F・マリノスへ加入した中村であったが、チームは前年よりわずかに順位を上げ2010年度シーズンは8位で終わり、2007年度の7位を越えることはできず、天皇杯は前年度と変わらず4回戦敗退、ナビスコカップは2002年以来8年ぶりの予選リーグ敗退と、中村はチームを牽引することも起爆剤となることもできなかった。

2011年1月25日、チームは中村俊輔のキャプテン就任を発表し、本人はその中でキャプテン就任について「光栄な事」と語った[27]。3月29日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!ドラガン・ストイコビッチ率いるJリーグ TEAM AS ONEの一員として参加した[28]

プレースタイル

 
フリーキックを蹴る中村俊輔

プレースキックの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている[29]。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォーム(右の写真参照)である。元々は大きく弧を描くキックを得意としていたが、レッジーナ移籍後からはスピードに重点を置いたキックを多用している[30]

プロサッカー関係者の評価

やべっちFCにて直接対談した名波浩は、中村が代表合宿に初招集された98年2月のオーストラリア遠征では19歳という年齢ながら当時の代表メンバーを1対1で圧倒していたことを語っていた[5]

レッジーナ時代には、監督のマッツァーリは「中村はバッジオのようなもので、FWもできるし、MFもできる。素質のある選手はDFを抜くこともパスも出せるんだ。」と評した[31]プランデッリは中村について「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」と評した[32]

セルティック時代には、指揮官であるストラカンは「彼は天才だ。」という言葉を残し、また巷でタックルができない選手だと批判されていることについて疑問を呈した[33]。チームメイトであったドナーティは「ナカは技術面ではチームでナンバー1だ。他にもマクギーディブラウンら上手い選手はいるけど、ナカは別格」と述べている[34]

エスパニョールでチームメイトであったデ・ラ・ペーニャ は「ナカはチーム内で一番技術が高い選手だ」と述べた[35]

代表歴

出場大会など

各本大会での成績は以下の通り。

年代別代表[36]

  • U-20代表
1996年 AFCユース選手権韓国大会 ベスト4 6試合出場 1得点
1997年 FIFAワールドユースマレーシア大会 ベスト8 5試合出場 1得点
  • U-23代表
1998年 アジア大会 2次リーグ敗退 3試合出場 1得点
2000年 シドニーオリンピック ベスト8 4試合出場 0得点

A代表[37]

2000年 アジアカップレバノン大会 優勝
2003年 コンフェデレーションズカップフランス大会 グループリーグ敗退
2004年 アジアカップ中国大会 優勝
2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会 グループリーグ敗退
2006年 ワールドカップドイツ大会 グループリーグ敗退
2007年 アジアカップ2007 ベスト4
2010年 2010 FIFAワールドカップ ベスト16

試合数

  • 国際Aマッチ 出場試合数98 先発出場試合数89 交代出場試合数9  得点24 警告7 退場0 (2000年 - 2010年)[37]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2000 16 3
2001 1 0
2002 6 2
2003 8 4
2004 15 3
2005 11 2
2006 6 2
2007 10 4
2008 9 2
2009 11 2
2010 5 0
通算 98 24

ゴール

通算得点数 開催年月日 開催地 対戦国 試合結果 試合概要 出典
1 2000年2月16日 中国   ブルネイ ○ 9-0 AFCアジアカップ2000予選 [4]
2 2000年6月11日 日本   スロバキア △ 1-1 キリンカップ [5]
3 2000年8月16日 日本   アラブ首長国連邦 ○ 3-1 キリンチャレンジ2000 [6]
4,5 2002年5月2日 日本   ホンジュラス △ 3-3 キリンカップ 2得点 [7]
6 2003年3月28日 日本   ウルグアイ △ 2-2 親善試合 [8]
7,8 2003年6月18日 フランス   ニュージーランド ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 2得点 [9]
9 2003年6月20日 フランス   フランス ● 1-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 [10]
10 2004年6月9日 日本   インド ○ 7-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 [11]
11 2004年7月20日 中国   オマーン ○ 1-0 AFCアジアカップ2004 [12]
12 2004年7月24日 中国   タイ ○ 4-1 AFCアジアカップ2004 [13]
13 2005年6月22日 ドイツ   ブラジル △ 2-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 [14]
14 2005年9月7日 日本   ホンジュラス ○ 5-4 キリンチャレンジカップ [15]
15 2005年10月8日 ラトビア   ラトビア △ 2-2 親善試合 [16]
16 2006年6月12日 ドイツ   オーストラリア ● 1-3 2006 FIFAワールドカップ [17]
17 2007年7月13日 ベトナム   アラブ首長国連邦 ○ 3-1 AFCアジアカップ2007 [18]
18 2007年7月16日 ベトナム   ベトナム ○ 4-1 AFCアジアカップ2007 [19]
19,20 2007年9月11日 オーストリア   スイス ○ 4-3 親善試合 2得点 [20]
21 2008年6月2日 日本   オマーン ○ 3-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 [21]
22 2008年9月6日 バーレーン   バーレーン ○ 3-2 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 [22]
23 2009年3月28日 日本   バーレーン ○ 1-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 [23]
24 2009年11月18日 香港   香港 ○ 4-0 AFCアジアカップ2011 (予選) [24]

タイトル

クラブタイトル

横浜Fマリノス[38]
セルティックFC[39]

個人タイトル

その他

経歴

所属クラブ

ユース経歴

プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1997 横浜M 25 J 27 5 3 0 1 0 31 5
1998 33 9 4 1 0 0 37 10
1999 横浜FM 10 J1 26 7 4 0 3 1 33 8
2000 30 5 4 1 2 0 36 6
2001 24 3 6 2 1 0 31 5
2002 8 4 - - 8 4
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2002-03 レッジーナ 10 セリエA 32 7 4 1 - 36 8
2003-04 16 2 2 0 - 18 2
2004-05 33 2 0 0 - 33 2
スコットランド リーグ戦 S・リーグ杯スコティッシュ杯 期間通算
2005-06 セルティック 25 S・プレミア 33 6 4 0 1 0 38 6
2006-07 37 9 0 0 5 0 42 9
2007-08 26 6 0 0 4 1 30 7
2008-09 32 8 3 1 2 0 37 9
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
2009-10 エスパニョール 7 プリメーラ 13 0 2 0 - 15 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
2010 横浜FM 25 J1 32 5 1 0 2 1 35 6
通算 日本 J1 180 38 22 4 9 2 211 44
イタリア セリエA 81 11 6 1 - 87 12
スコットランド S・プレミア 128 29 7 1 12 1 147 31
スペイン プリメーラ 13 0 2 0 - 15 0
総通算 402 78 37 6 21 3 460 87

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
UEFAUEFA CL
2006-07 セルティック 25 8 2
2007-08 4 0
2008-09 5 0
通算 UEFA 17 2

出演

CM

PV出演

  • Hi-Fi CAMP 「だから一歩前に踏み出して」(2009年)

出版

執筆書籍

関連書籍

DVD

  • SHUNSUKE
  • FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
  • 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
  • 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005
  • セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡

脚注

  1. ^ ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった(『中村俊輔物語』より)。
  2. ^ 中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが(著書 察知力)、当時の担当者は160cmに満たない身長が原因だったと述懐している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技で補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。
  3. ^ 1学年上には須藤大輔、同級生に佐原秀樹、1学年下に宇留野純井手口純がいる。
  4. ^ この時、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のサポーターが応援に来た。
  5. ^ a b 俊輔の代表初選出に、先輩選手は“アイツ何なの”? Sports Watch、2009年4月18日
  6. ^ Will home beckon Celtic's Japanese star Nakamura?”. ニューヨーク・タイムズ (2009年3月1日). 2011年4月3日閲覧。
  7. ^ ドイツキッカー誌の選定による。
  8. ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の奥寺康彦
  9. ^ UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。
  10. ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に奥寺康彦が進出している。
  11. ^ スポーツ報知 (2006年10月15日). “俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ”. 2009年3月1日閲覧。
  12. ^ 近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がセリエA・ASローマで優勝。
  13. ^ ダンディーユナイテッド戦のループシュート。
  14. ^ 日本人としては、中田英寿、稲本潤一に次ぎ3人目。
  15. ^ Shunsuke Nakamura to leave Celtic for Espanyol guardian.co.uk 2009年6月22日、2011年4月15日閲覧。
  16. ^ Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The SeasonGoal.com 2009年12月29日、2011年4月15日閲覧。
  17. ^ El conflicto Nakamura EL PAÍS.com 2010年2月11日、2011年4月15日閲覧。 "Es un problema claro y contundente de aclimatación"「環境への順応に問題があったことは明らかだ。」というポチェッティーノの発言が引用されている。
  18. ^ 必要とされなかったファンタジスタ (1/2)中村俊輔がスペインで活躍できなかった理由 スポーツナビ、2010年3月1日、2011年4月15日閲覧。
  19. ^ 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ - Goal.com、2010年2月2日
  20. ^ 中村俊輔「スペイン挑戦は失敗だと思わない」 (1/2)横浜F・マリノス入団会見 スポーツナビ 2010年2月28日、2011年4月15日閲覧。
  21. ^ ごまかせなかった…俊輔すっかり自信喪失、スポニチ、2010年05月25日
  22. ^ 俊輔不発…後半途中初出場も流れ変えられず、デイリースポーツ、2010年6月20日
  23. ^ 中村俊輔選手に批判も、W杯日本vs.オランダの中国メディアの反応は? livedoorsport2010年06月20日
  24. ^ 俊輔 代表引退認める「うん、そうだよ」、スポニチ、2010年7月1日
  25. ^ ニュース&すぽると!2010年8月8日
  26. ^ Stats Stadium
  27. ^ 2011シーズン キャプテン決定のお知らせ 横浜Fマリノス 2011年1月25日。同年4月11日閲覧。
  28. ^ マッチレポート 日本サッカー協会 2011年3月29日。同年4月11日閲覧。
  29. ^ THE LIST: Nos 40-31 of the greatest free-kick kings in history-Daily Mail 2009年 4年 7日
  30. ^ [1]中村俊輔らW杯を彩るFKの名手たち 2006年06月11日
  31. ^ [2] 指揮官絶賛「俊輔はバッジオ」 – SerieA.jp、2004年9月14日
  32. ^ 中田、中村が前日練習 8日に直接対決 ? 共同通信、2002年12月7日
  33. ^ [3]-Celtic Secure Second Successive Championship! 2007/04/25
  34. ^ 俊輔同僚「ナカムラのテクニックはチーム一だ」 ? 欧州通信、2007年10月3日
  35. ^ 必要とされなかったファンタジスタ ? スポーツナビ、2010年3月1日
  36. ^ 中村俊輔 日本サッカー協会 2011年4月13日閲覧。
  37. ^ a b 選手情報 中村俊輔 日本サッカー協会 最終更新日2010年06月29日 2011年4月13日閲覧。
  38. ^ クラブヒストリー 横浜Fマリノス 2011年4月13日閲覧。
  39. ^ brief history Celtic Football Club 2011年4月13日閲覧。
  40. ^ 1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。

外部リンク