張懐芝
張 懐芝(ちょう かいし)は清末民初の軍人。北洋系で、北京政府の中でも主に安徽派に属した。字は子志。
張懐芝 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1862年(清同治元年)[1] |
死去: |
1934年(民国23年) 中華民国天津市 |
出身地: | 清山東省泰安府東平州(現在の東阿県) |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 張懷芝 |
簡体字: | 张怀芝 |
拼音: | Zhāng Huáizhī |
ラテン字: | Chang Huai-chih |
和名表記: | ちょう かいし |
発音転記: | ジャン フアイヂー |
事跡
清朝では、北洋武備学堂卒業後に袁世凱が創設した新建陸軍に所属した。以後、左翼砲兵領官、北洋常備軍協統、山海関巡防営統領、北洋第5鎮鎮統、天津鎮守使、直隷混成協統領官などを歴任した。
1912年(民国元年)1月、幇弁山東防務大臣となる。その後に安徽巡撫に異動した。1915年(民国4年)8月、察哈爾(チャハル)都統に就任している。12月に袁世凱が皇帝に即位すると、一等男爵に封じられた。1916年(民国5年)5月、済武将軍に封じられ、署理山東軍務(いわゆる山東将軍)となった。
同年6月の袁世凱死後、7月に張懐芝は山東督軍に任命された。これ以後、張は安徽派に属して段祺瑞を支援し、安徽派督軍による「十三省連合会」(いわゆる「督軍団」)にも名を列ねている。1918年(民国7年)2月、湘贛検閲使に任命され、湖南省に遠征したが敗退した。1919年(民国8年)1月、北京政府の参謀本部総長に任命された。
1920年(民国9年)の安直戦争の直前には、総統徐世昌の命により、張懐芝は、姜桂題とともに直隷派との調停に奔走したが成功しなかった。安徽派が敗北すると、張は直隷派に転じている。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争では、参謀総長兼前敵総執法処処長として直隷派に加わった。しかし、奉天派に敗北し、張も下野した。以後、天津に隠居する。
1934年(民国23年)、病没。享年73。
注
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 鍾碧容「姜桂題」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2。
中華民国(北京政府)
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