クレズリー・エバンドロ・ギマラエンス
ケリーこと、クレズリー・エヴァンドロ・ギマランイス(Clesly Evandro Guimarães "Kelly"、1975年4月28日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー (MF)。
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名前 | ||||||
本名 | クレズリー・エヴァンドロ・ギマランイス | |||||
愛称 | ケリー | |||||
ラテン文字 | KELLY | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1975年4月28日(49歳) | |||||
出身地 | サンパウロ州バハ・ボニータ[1] | |||||
身長 | 178cm[2] | |||||
体重 | 78kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF[2], FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
ブラガンチーノ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992-1997 | ブラガンチーノ | |||||
1997 | ログロニェス | 12 | (1) | |||
1997 | フラメンゴ | 2 | (0) | |||
1998-2001 | アトレチコPR | 53 | (10) | |||
2001-2004 | FC東京 | 97 | (30) | |||
2005 | クルゼイロEC | 39 | (16) | |||
2006 | アル・アイン | |||||
2007 | グレミオ | 15 | (1) | |||
2008 | アトレチコPR | 6 | (0) | |||
通算 | 224 | (58) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集5歳の時にサッカーを始める[3]。CAブラガンチーノのトレーナーを務める叔父の紹介を受け[4]、15歳で親元を離れ[5] 同クラブの下部組織へ加入。1992年にプロ契約を結んだ[4]。
ブラジル全国選手権での活躍が認められ[4]、1997年にスペイン・CDログロニェスへ移籍。しかし外国籍枠の制限から若手のケリーはメンバー外になることが多く[6]、半年で移籍期間を満了した。
1998年から所属したアトレチコ・パラナエンセではチームにフィットし実力を発揮。ケリーはトップ下で[3] 背番号10を背負い、MFアドリアーノ、FWクレーベル、FWルーカスと築いた攻撃陣は「quadrado mágico(魔法陣)」と称された[7]。ケリー自身も州選手権制覇の原動力となる活躍で「パラナ州最高のフットボーラー」として名を馳せ[4][8][9]、その名前に違わぬプレーを披露した[10]。
2001年3月、同年のJリーグ開幕直前にFC東京へ移籍[8]、4月14日の浦和レッズ戦での決勝ゴールがJリーグ初ゴールとなった[11]。卓越した個人技と[4]周囲を活かす抜群のキープ力で[12]チームの攻撃を掌握しトップ下に定着。的確にスペースをつく効果的なパス、二列目から飛び出して行きゴールに球を流し込む・押し込むようなゴール、相手に囲まれた際にヒールパスやラボーナなど意表をつくプレーで[9]「将軍」の異名をとった[10]。2002年はフィールドプレーヤーではチーム最長出場[13]、2003年にはJリーグ優秀選手に選出された[14]。
2004年は膝、足首、脹脛と細かな負傷が続き[15]、復帰戦でも退場処分を受けるなど[16] 思わぬ不振に見舞われた[17]。シーズン後半から復帰し[18]同年のナビスコカップ優勝にも貢献したが、ケリーの離脱中に抜擢された馬場憂太や梶山陽平が好プレーを続けたことや[19]、クラブ首脳がケリーら外国籍助っ人頼みとなっている状況からの脱皮を試みたこと[12] などの要因が重なり、この年限りで契約を満了[20]。2ndステージ、第4節、9月11日のヴィッセル神戸戦で決めた2点目のゴールがJリーグでの最後のゴール[21]、第13節、11月20日のアルビレックス新潟戦が最後の出場となった[22]。Jリーグでは通算97試合30ゴール、リーグカップでは22試合4ゴールの成績を残した[11]。
日本でのプレー継続を望んでいたが[17][23]、他クラブからの具体的なオファーは無く[24]、2005年1月、母国ブラジル帰国後にクルゼイロECへ完全移籍。早々にポジションを獲得すると点取り屋としての才能も開花させ、同年のブラジル全国選手権ではチーム得点王となる16得点を挙げた[25]。クルゼイロとの契約途中でUAEの強豪アル・アインFCから好条件のオファーが届いた事から円満移籍に至り、スペイン・日本に続く3ヶ国目の海外移籍を果たした。
2007年3月、ブラジルに帰国し名門・グレミオに移籍[26]。その後2008年シーズンからは古巣であるアトレチコ・パラナエンセに復帰するものの、右膝を手術するなど[27][25]コンディションは悪く、同年12月いっぱいでクラブを退団。AAポンチ・プレッタへの移籍を図ったが、右膝はプレーに耐えられるほどには回復しなかったことから[28]、2009年8月に引退を表明した[25]。
引退後は、フィジカルコーチを目指してブラジルのスポーツ大学で体育学学位を取得[9]。また、自身のイニシャルを取ったサッカースクール「KG10」を設立した[25]。
エピソード
編集所属クラブ
編集個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | ブラガンチーノ | セリエA | 10 | 0 | |||||||
1995 | 22 | 11 | |||||||||
1996 | 21 | 8 | |||||||||
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1996-97 | ログロニェス | リーガ・エスパニョーラ | 12 | 1 | |||||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | フラメンゴ | セリエA | 2 | 0 | |||||||
1998 | アトレチコPR | 12 | 1 | ||||||||
1999 | 10 | 20 | 7 | ||||||||
2000 | 21 | 2 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2001 | FC東京 | 19 | J1 | 26 | 9 | 4 | 2 | 1 | 0 | 31 | 11 |
2002 | 29 | 8 | 6 | 1 | 0 | 0 | 35 | 9 | |||
2003 | 27 | 9 | 8 | 0 | 2 | 1 | 37 | 10 | |||
2004 | 15 | 4 | 4 | 1 | 3 | 1 | 22 | 6 | |||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2005 | クルゼイロ | 10 | セリエA | 39 | 16 | ||||||
UAE | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2005-06 (en) | アル・アイン | UAEリーグ | |||||||||
2006-07 (en) | 11 | ||||||||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2007 | グレミオ | 17 | セリエA | 15 | 1 | ||||||
2008 | アトレチコPR | 6 | 0 | ||||||||
通算 | ブラジル | セリエA | |||||||||
スペイン | リーガ・エスパニョーラ | 12 | 1 | ||||||||
日本 | J1 | 97 | 30 | 22 | 4 | 6 | 2 | 125 | 36 | ||
UAE | UAEリーグ | ||||||||||
総通算 |
国際大会個人成績 | ||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
CONMEBOL | スダメリカーナ杯 | リベルタドーレス杯 | ||||
2000 | アトレチコPR | - | 8 | 4 | ||
2005 (en) | クルゼイロ | 3 | 0 | - | ||
AFC | ACL | - | ||||
2005 | アル・アイン | - | ||||
2006 | 11 | - | ||||
CONMEBOL | スダメリカーナ杯 | リベルタドーレス杯 | ||||
2007 (en) | グレミオ | 17 | - | |||
2008 (en) | アトレチコPR | 16 | 2 | 1 | - | |
通算 | AFC | - | ||||
通算 | CONMEBOL |
- 1993年4月28日:プロ初出場 - カンピオナート・パウリスタ vsCAジュベントス[30]
- 1997年1月26日:リーガ・エスパニョーラ初出場 - 第21節 vsレアル・ソシエダ
- 1997年6月22日:リーガ・エスパニョーラ初得点 - 第42節 vsレアル・ソシエダ
- 2001年3月10日:Jリーグ初出場 - J1 1st第1節 vs東京ヴェルディ1969 (味スタ)[2]
- 2001年4月14日:Jリーグ初得点 - J1 1st第5節 vs浦和レッドダイヤモンズ (駒場)[2]
指導歴
編集- 2015年12月 - アトレチコ・パラナエンセ U-19:アシスタントマネージャー
タイトル
編集- カンピオナート・パラナエンセ (1998年、2000年、2001年)[27]
- コパ・パラナ (1998年)
- pt:Seletiva para a Libertadores (1999年)[27]
- UAEプレジデントカップ (2005年)[26]
- フェデレーションカップ (2005年)[26]
脚注
編集- ^ a b PERFIL - ウェイバックマシン(2009年2月21日アーカイブ分) 公式ウェブサイト
- ^ a b c d e 登録選手一覧表 Jリーグ (2004年12月10日)
- ^ a b c 『FC東京ファンブック2004』毎日新聞社、2004年、14-15頁。
- ^ a b c d e f 『FC東京ファンブック2002』毎日新聞社、2002年、65-71頁。
- ^ 365日FC東京 ケリーのHEAT UP <第8回> - ウェイバックマシン(2004年8月6日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年6月30日)
- ^ 365日FC東京 ケリーのHEAT UP <第3回> - ウェイバックマシン(2004年4月29日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年4月21日)
- ^ Jogadores Kelly Furacao
- ^ a b ケリー選手入団決定! - ウェイバックマシン(2004年5月13日アーカイブ分) FC東京 (2001年3月6日)
- ^ a b c 「ケリーが9年ぶりに小平グラウンドに」週間練習リポート (7/26-7/30) サッカーキング (2013年8月4日)
- ^ a b “FC東京、歴代最強外国籍選手5人。Jリーグ昇格、タイトル獲得へ突き上げたブラジル人たち 将軍ケリー”. /www.footballchannel. 23 April 2020閲覧。
- ^ a b “ケリー”. data.j-league. 23 April 2020閲覧。
- ^ a b さらばケリー FC東京躍進の立役者 今季限りで退団 - ウェイバックマシン(2004年12月7日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年12月3日)
- ^ 選手出場記録 (1/2) (2002年8月17日)
選手出場記録 (2/2) (2002年11月30日) - ^ 土肥・石川・ケリーの3選手が2003Jリーグ優秀選手賞に選ばれる! - ウェイバックマシン(2004年3月15日アーカイブ分) FC東京 (2003年12月8日)
- ^ 365日FC東京 ケリーのHEAT UP <第6回> - ウェイバックマシン(2004年6月6日アーカイブ分)
- ^ 選手出場記録 (1/2) Jリーグ (2004年6月26日)
- ^ a b ケリー『日本残りたい』起用法に不満ない - ウェイバックマシン(2004年12月11日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年12月4日)
- ^ 選手出場記録 (2/2) Jリーグ (2004年11月28日)
- ^ 365日FC東京 若手の経験が収穫 目標は得点力UP - ウェイバックマシン(2005年11月10日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年6月28日)
- ^ 来季契約非継続選手について - ウェイバックマシン(2004年12月9日アーカイブ分) FC東京 (2004年12月2日)
- ^ “2004Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第4節”. data.j-league. 23 April 2020閲覧。
- ^ “2004Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第13節”. data.j-league. 23 April 2020閲覧。
- ^ 365日FC東京 ケリーのHEAT UP <最終回> - ウェイバックマシン(2005年3月20日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年12月22日)
- ^ ケリー クルゼイロ入り 公式HPで発表 - ウェイバックマシン(2005年1月9日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2005年1月7日)
- ^ a b c d Kelly recorda eliminação para o Paulista na Copa do Brasil de 2005:"Traumática" SuperEsportes (2013年3月13日)
- ^ a b c KELLY FOI APRESENTADO NO OLÍMPICO グレミオ (2007年3月31日)
- ^ a b c Kelly realiza cirurgia no joelho direito アトレチコ・パラナエンセ (2008年3月14日)
- ^ a b c Kelly Guimarães 2011.04.15
- ^ 365日FC東京 ケリーのHEAT UP <第13回> - ウェイバックマシン(2005年11月24日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年9月8日)
- ^ 365日FC東京 ケリーのHEAT UP <第1回> - ウェイバックマシン(2004年4月29日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年3月24日)
関連項目
編集外部リンク
編集- クレズリー・エバンドロ・ギマラエンス - Soccerway.com
- クレズリー・エバンドロ・ギマラエンス - FootballDatabase.eu
- クレズリー・エバンドロ・ギマラエンス - WorldFootball.net
- クレズリー・エバンドロ・ギマラエンス - Transfermarkt.comによる選手データ
- クレズリー・エバンドロ・ギマラエンス - J.League Data Siteによる選手データ
- Kelly Rosangela Guimarães (KellyGuima) - Facebook
- KG10 (pages/KG10/261779557269221) - Facebook
- Kelly Guimarães - LinkedIn
- Interview No.830 (1/2) - ウェイバックマシン(2002年8月9日アーカイブ分) - WEBサッカーマガジン (2001年8月30日)
- 同上 (2/2) - ウェイバックマシン(2002年8月18日アーカイブ分)
- Rivals インタビュー - ウェイバックマシン(2002年6月9日アーカイブ分)
- Kelly - ブラジルサッカー連盟による個人成績
- Kelly - zerozero.pt
- Kelly - sambafoot.com
- プロフィール (2004年) - ウェイバックマシン(2004年12月10日アーカイブ分) - FC東京
- プロフィール (2005年) - ウェイバックマシン(2006年1月13日アーカイブ分) - クルゼイロEC
- プロフィール (2007年) - ウェイバックマシン(2007年12月11日アーカイブ分) - グレミオ