メンシア・デ・メンドーサ
メンシア・デ・メンドーサ・イ・フォンセカ(Mencía de Mendoza y Fonseca, 1508年11月30日 - 1554年1月4日)は、ネーデルラント・ルネサンスの中心人物であり、女性の教育に対する進歩的な考え方で知られた。
メンシア・デ・メンドーサ Mencía de Mendoza | |
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出生 |
1508年11月30日 |
死去 |
1554年1月4日(45歳没) |
配偶者 | ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ |
カラブリア公フェルナンド・デ・アラゴン | |
家名 | メンドーサ家 |
父親 | 初代セネテ侯ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール・イ・メンドーサ |
母親 | マリア・デ・フォンセカ・イ・トレド |
生涯
編集メンシアは初代セネテ侯ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール・イ・メンドーサとマリア・デ・フォンセカ・イ・トレドの娘である。1524年にヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダと最初に結婚したが[1]、この結婚はスペイン貴族とネーデルラント貴族との融和計画を積極的に進めていたカール5世のすすめによるものであった。2人の間には1527年3月に息子が生まれたが生後数時間で夭折し、ヘンドリック3世は1538年に死去した。その後1542年にカラブリア公フェルナンド・デ・アラゴンと再婚した[2]。メンシアにとって2度目、フェルナンドにとっては3度目の結婚であった。この夫婦は文学や芸術作品のパトロンとして知られた。
脚注
編集- ^ Spivakovsky 1970, p. 9.
- ^ Perez-Toribio 2011, p. 74.
参考文献
編集- Perez-Toribio, Montserrat (2011). “From Mother to Daughter: Educational lineage in the Correspondence between the Countess Palamos and Estafania de Requensen”. Women's Literacy in Early Modern Spain and the New World. Ashgate
- Spivakovsky, Erika (1970). Son of the Alhambra: Don Diego Hurtado de Mendoza, 1504-1575. University of Texas Press