中山柵
中山柵(なかやまのさく、なかやまのき)は、陸奥国に置かれた古代日本の城柵の1つ。
中山柵 (陸奥国小田郡) | |
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城郭構造 | 古代城柵 |
築城年 | 延暦23年(804年)以前 |
主な城主 | 不明 |
廃城年 | 不明 |
概要
編集初出は『日本後紀』。
「延暦23年1月19日、征夷のため、坂東の6ヶ国(武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野)と陸奥国に命じて、糒1万4,315五斛・米9,685斛を陸奥国小田郡中山柵に運ばせる。」
この記事から、中山柵は遅くとも、延暦23年(804年)までには完成していたことになる。
諸説
編集伊東信雄は『宮城県史』第1巻(1957年)において、多賀城の北方を固める天平五柵(石巻平野から大崎平野にかけて造営された牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵の四柵と不明の一柵)の不明の一柵に小田郡中山柵を充てた。伊東は「当時の情勢」から中山柵の創建は天平期まで遡る可能性を指摘し、中山柵擬定地に遠田郡涌谷町箟岳山(ののだけさん)[1]、登米郡米山村[2]中津山[3]、桃生郡河南町[4]佳景山(かけやま)[5]の3説をあげた。伊東は『古代東北発掘』(学生社:1973年)の第13章「考古学上から見た古代東北」(黒川文化研究所夏期講座:1972年8月6日を収録)の「奈良時代までの東北城柵の位置」においても、中山柵を桃生城の西方、新田柵と牡鹿柵の間に図示し、中山柵擬定地は涌谷町箟岳山説を最有力と考えていたことが知られる。
箟岳丘陵の南側に位置する涌谷町日向館跡と周辺からは土塁状の高まりとともに、多賀城創建期以前(仙台郡山遺跡Ⅱ期)の竹状模骨痕を残す凸面格子叩き平瓦およびそれ以降の布目瓦が確認されており、日向館跡は小田軍団に関わる城柵、小田郡家、天平五柵の不詳の一柵(あるいは中山柵)などの役割を担いながら、中世城館へと変容していったものと考えられている[6][7]。
脚注
編集- ^ 岩崎綱雄『陸奥国軍団旧地考』(宮内庁書陵部所蔵)、嘉永7年(1854)。岩崎綱雄は、天明8年(1788)生、慶応2年(1866)没。栗原郡北宮澤村の人。桜戸桜翁と号す。「陸奥国軍団旧地考」は村瀬兼太郎編(1911-1912)『百家叢説』第3編、国書出版協会に再録。
- ^ 『宮城県史』刊行当時。現在は登米市。
- ^ 千葉直枝「陸奥小田郡私考」慶応元年(1865)5月写本(佐々木敏雄旧蔵、佐々木敏雄「天平産金地に関する考察」『仙台郷土研究』第18巻第1号、昭和33年(1958)、17~30頁)、大槻文彦「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」明治31年(1898)(大槻文彦『復軒雑纂』明治35年(1902)に収録=宮城県図書館所蔵、涌谷町編『史跡黄金山産金遺跡―関係資料集―』昭和59年(1984)に収録)、淸水東四郎「中山の柵」『宮城県史蹟天然記念物調査』第13輯 宮城県史蹟天然記念物調査会、昭和15年(1940)33~42頁
- ^ 『宮城県史』刊行当時。現在は石巻市。
- ^ 鈴木省三「中山柵」『宮城県史蹟天然記念物調査』第1輯 宮城県史蹟天然記念物調査会、大正12年(1923)11~13頁
- ^ 相原淳一・谷口宏充・千葉達朗2019「赤色立体地図・空撮写真からみた城柵官衙遺跡―宮城県石巻市桃生城跡・涌谷町日向館跡とその周辺―」『東北歴史博物館研究紀要』20、https://sitereports.nabunken.go.jp/54312
- ^ 相原淳一・二瓶雅司2022「宮城県涌谷町日向館跡・中野遺跡の調査」『東北歴史博物館研究紀要』23、https://sitereports.nabunken.go.jp/121907