二条師嗣

南北朝時代~室町時代の公卿。従一位、関白(北朝→再統一)、左大臣(北朝)。勅撰集『新後拾和歌集』以下に6首入集。二条家7代、藤氏長者

二條 師嗣(にじょう もろつぐ)は、日本南北朝時代から室町時代にかけての公卿

 
二條師嗣
「摂家二條家墓基礎調査報告書」同志社大学歴史資料館
時代 南北朝時代北朝)-室町時代
生誕 延文元年(1356年
改名 応永7年11月22日1400年12月8日
官位 従一位関白左大臣
主君 後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 藤原北家二条家
父母 父:二条良基、母:土岐頼康
兄弟 師良師嗣一条経嗣道意満意
東坊城長綱
満基持基
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経歴

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応永五年(1398年)三月、関白に任じられたとき、足利義満に対して「准后禅閤(義満)芳恩に至り、尤っとも有難し」と述べられました(『迎陽記』三月九日条)。

応永六年四月、関白二条師嗣は、先月に行われた興福寺供養に馬副(将軍の乗馬に付き添う従者か)を連れて行かなかったことたが、義満の怒りを買い、関白辞任を申し出た。だが、義満からは「公家(天皇)に申さるべし」と突き返され、出家を余儀なくされた(『迎陽記』四月十四日条)

官職歴

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  • 貞治5年9月26日(1366年10月30日) - 貞治5年12月7日(1367年1月7日) 左近衛権中将
  • 貞治5年12月7日(1367年1月7日) - 応安2年12月19日(1370年1月17日) 右近衛権中将
  • 貞治6年2月13日(1367年3月14日) - 応安元年2月21日(1368年3月10日) 播磨介
  • 応安元年4月19日(1368年5月6日) - 応安4年3月12日(1371年3月29日) 権中納言
  • 応安2年12月19日(1370年1月17日) - 応安3年11月19日(1370年12月7日) 右近衛大将
  • 応安3年11月19日(1370年12月7日) - 永和2年正月(1377年1月) 左近衛大将
  • 応安4年3月12日(1371年3月29日) - 永和元年11月18日(1375年12月11日) 権大納言
  • 永和元年11月18日(1375年12月11日) - 永和4年8月27日(1378年9月19日) 右大臣
  • 永和4年8月27日(1378年9月19日) - 永徳2年正月26日(1382年2月9日) 左大臣
  • 康暦元年8月25日(1379年10月6日) - 永徳2年4月11日(1382年5月24日) 関白後円融天皇
  • 嘉慶2年6月12日(1388年7月15日) - 応永元年11月6日(1394年11月29日) 関白(後小松天皇
  • 応永5年3月9日(1398年3月27日) - 応永6年4月17日(1399年5月22日) 関白(後小松天皇)

位階歴

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  • 貞治5年8月29日(1366年10月4日) 正五位下
  • 貞治6年正月5日(1367年2月4日) 従四位下
  • 貞治6年7月22日(1367年8月18日) 正四位下
  • 応安元年2月21日(1368年3月10日) 従三位
  • 応安2年正月5日(1369年2月12日) 正三位
  • 応安4年正月5日(1371年1月22日) 従二位
  • 応安6年正月6日(1373年1月30日) 正二位
  • 永和5年正月6日(1379年1月24日) 従一位

系譜

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参考文献

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  • 公卿補任
  • 樋口健太郎 『摂関家の中世 藤原道長から豊臣秀吉まで』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 521〉、2021年。ISBN 4642059210
公職
先代
九条忠基
二条良基
一条経嗣
関白北朝→再統一)
1379 - 1382
1388 - 1394
1398 - 1399
次代
二条良基
一条経嗣
一条経嗣
先代
九条忠基
左大臣(北朝)
1378 - 1382
次代
足利義満
先代
九条忠基
右大臣(北朝)
1375 - 1378
次代
近衛兼嗣
軍職
先代
九条忠基
左近衛大将(北朝)
1370 - 1376
次代
近衛兼嗣
先代
今出川公直
右近衛大臣(北朝)
1370
次代
花山院兼定