第五十国立銀行
第五十国立銀行(だいごじゅうこくりつぎんこう)は、明治期に茨城県新治郡土浦町にあった県初の国立銀行[1]。常陽銀行の前身の一つ[1]。
概要
編集土浦藩で国家老(大参事)を務めた一色範疇は、国立銀行条例が布告されると銀行設立を企図し、困窮した土浦士族の禄券(秩禄公債)を募った。10万円が集まったところで資本金とし、水戸街道沿いの中城町(なかじょう)の民家を借り受け、1878年(明治11年)に設立開業した。初代頭取、一色範疇。紙幣発行限度8万円。
1897年(明治30年)7月に国立銀行営業満期前特別処分法により株式会社土浦五十銀行(つちうらごじゅうぎんこう)と改称[1]。資本金を75万円に増強。その後、五十銀行(ごじゅうぎんこう)に行名を変えながら県内の19にも及ぶ銀行を吸収、日本橋、水戸、北條、江戸崎、小川など支店を設ける。1935年(昭和10年)7月に常磐銀行と合併、常陽銀行を新しく設立した[1]。
沿革
編集一色範疇
編集いっしきはんちゅう
来歴
編集土屋陳直6世の孫。文化12年、土浦生まれ。安政4年、土浦藩用人。のちに執政に進む。元治元年、軍奉行。明治2年、版籍奉還後に年寄格から土浦藩大参事に就く。廃藩置県後の明治11年、土浦第五十国立銀行頭取。明治32年に退任、稲敷郡長の長子・範叙2代頭取に就く。明治34年7月、73歳歿。
人物
編集身長6尺に届き躯幹魁偉、少壮武を好み武芸奥義を究む。士族の商法に反し、理財に長け堅実で、銀行経営は順調に推移する。明治16年正月、銀行の仮金庫があった眞鍋町板谷の自宅に強盗が押し入り、犯人に斬りつけられ負傷するも、逆に賊3人のうち2人を袈裟切りに討ち伏せた。その後の土浦警察出張所の現場検証および取り調べの結果、正当防衛が成立し頭取に留まる。帝国国立銀行である当行発行の5円券には範疇の印がある。明治期に眞鍋に移設された一色家住宅主屋は、国登録有形文化財である。