分部信秋
分部 信秋(わけべ のぶあき)は、江戸時代前期の近江国大溝藩世嗣。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 延宝3年(1675年) |
死没 | 元禄9年9月19日(1696年10月14日) |
別名 | 辰千代[1]、右近(通称)[1] |
戒名 | 水月院善応恵現[1] |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
藩 | 近江大溝藩世嗣 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 父:分部信政 母:伊東祐由娘[1] |
兄弟 | 信秋、光忠、河鰭実詮室、伊東祐崇正室ら |
生涯
編集延宝3年(1675年)[1]、4代藩主・分部信政の長男として誕生[1]。母は飫肥藩主伊東祐由(祐次)の娘[1]。
元禄2年(1689年)4月21日、15歳で徳川綱吉に御目見する[1]。しかし、元禄9年(1696年)9月19日、父に先立って没した[1]。享年22[1]。高輪の東禅寺に葬られた[1]。
同母弟の四郎五郎も早世しており[1]、信秋死後の元禄11年(1698年)に生まれた側室所生の三弟・光忠が正徳4年(1714年)に大溝藩を継ぐこととなる[1]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/12