千日手
千日手(せんにちて)とは、将棋において一局中に同一局面が何度か現れる状態、またはその状態を発生させる手のことである。本項目では、その他のチャトランガ系ゲームにおける千日手の規定についても述べる。
将棋における千日手
編集基本ルール
編集公式戦においては、両対局者の駒の配置や持ち駒の状態、手番が全く同じ局面が4回現れれば千日手と見なす。持将棋と異なりその勝負をなかったことにし、先手と後手を入れ替えて初手から指し直しとなる。30分の休憩後、指し直し前の両対局者の各残り時間がそのまま持時間となり、片方または両方の対局者の持時間が60分に満たない場合は、その対局者の持時間が60分になるように、両対局者に同じ持時間を加える。持時間が60分以下の棋戦ではその棋戦の実行規定に委ねられ、初めの持時間を越えて加算することはない。再度、千日手になった場合も同様の処理をする。千日手局は、タイトル戦を除いて通常一局とは数えない[1]。
2日制の番勝負では別途規定があり、名人戦の場合、1日目の15時前に千日手が成立したら、成立1時間後から指し直しとなる。15時を回って千日手が成立したら、その時点で1日目終了となり、封じ手時刻(18時30分)までの時間を折半した時間(最大105分)を両者の消費時間に加算し、残った持ち時間で2日目の対局を1日制で行う[2]。
タイトル戦の番勝負において千日手が成立した場合の手番の先後に関しては、指し直し局が決着した時に完結の扱いとなる(一局完結方式)。すなわち、第1局の振駒で挑戦者が先手となり、この第1局が千日手となった場合、第1局の指し直し局では手番の先後を入れ替えて挑戦者が後手となるが、第2局以降の手番は千日手成立による影響を受けず、第1局の振駒で決定した順序のまま第2局では挑戦者が後手、第3局(最終局でない場合)では挑戦者が先手、といった順を以後繰り返し、最終局では再度振り駒になる。この規定は2005年4月より、全棋戦の番勝負に適用された[3]。
なお、「指し直し局の先手・後手交換」について、初期の名人戦挑戦手合では先後交換がされていない(第2期(1940年)、第6期(1947年)、第7期(1948年))[4]。名人戦挑戦手合いで、指し直し局の先後交換がされるのは、1954年の第13期からである[4]。
手順例
編集
△持ち駒 銀(左側) / なし(右側)
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図の左側の盤面で、先手が後手玉に迫るには▲7一銀と打って詰めろをかける。後手は詰みから逃れるためには△7三銀打とするしかない。その後▲8二銀成△同銀と進むと、最初と全く同じ状態になる。この状態を繰り返すと千日手となる。
同一局面が4回現れなくても両対局者の合意があれば千日手が成立する。第59期名人戦(丸山忠久-谷川浩司)第3局(2001年5月8日)では、これによる千日手が成立した。一方で千日手に気付かずに終局した場合は投了が優先されるため、さかのぼって千日手とはならない。2006年7月2日に行われた丸山忠久-深浦康市戦(将棋日本シリーズ)では、同一局面が4回出現したが、対局者を含め関係者が気づかず[注 1]、そのまま指し継ぎ、千日手とならなかった(丸山が打開し、深浦が勝利)。
連続王手の千日手
編集千日手の手順において連続王手(一人の手順が全て王手である)の場合は王手を仕掛けている側が千日手の成立条件を満たした際に反則負けとなる。例えば右側の盤面でも、▲2二龍△2四玉▲3三龍△1三玉と進むと元の局面に戻るが、この場合は連続王手の千日手にあたるため、反則行為を避けるには先手が着手を変えなければならない。しかし先ほどの▲7一銀△7三銀打▲8二銀成△同銀の手順は王手を含むが連続王手ではないため反則行為とはならない。
なお、過去に公式棋戦では1999年6月3日の泉正樹-川上猛戦(早指し将棋選手権)で、泉が連続王手の千日手で反則負けとなった事例がある。
両者が連続王手(連続逆王手)で千日手となった場合のルールは明確に定義されていないが、公式戦では前例が存在せず、現在のところ特に問題視されていない。両者連続王手の千日手は手順(局面)としてはおそらく存在しないだろうと見られており、一応証明も試みられてはいるが、完全な証明はいまだなされていない。
ルールの変遷
編集- 千日手の成立
千日手の概念は古将棋にも存在していたと考えられているが、詳しいルールについては不解明な部分が多い。本将棋においては終盤で駒を打ち合い、取り合う状況でしか発生しないものと考えられていた。そのため、当初のルールとしては「千日手となったときには攻め方が手を変える。どちらが攻め方か不明のときは、仕掛けた側から手を変える」という曖昧な規定にとどまっていた[注 2]。
ところが1927年の対局(宮松関三郎六段対花田長太郎八段戦)で、序盤の駒組みの段階で同じ手を繰り返す局面が発生し、対局を中断して連盟に裁決をゆだねることとなった。これが局面に関わらず「同一手順3回」という千日手の規定を明確にした端緒となったと考えられている[5]。なお戦前、特に攻め方あるいは仕掛けた側から手を変えなければならないルールだった時代の書籍では、「千遍手」「百日手」などの名称も用いられていた。
9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |
香 | 桂 | 香 | 一 | ||||||
金 | 玉 | 二 | |||||||
馬 | 金 | 歩 | 歩 | 三 | |||||
歩 | 桂 | 歩 | 歩 | 歩 | 四 | ||||
角 | 桂 | 歩 | 歩 | 歩 | 五 | ||||
歩 | 歩 | 銀 | 歩 | 歩 | 六 | ||||
歩 | 七 | ||||||||
玉 | 銀 | 香 | 八 | ||||||
香 | 桂 | 飛 | 九 |
以前は「同一局面に戻る同一手順を連続3回」というルールであった。しかし、同一局面に戻る手順が複数ある場合、このルールでは無限に指し手を続けることが可能[注 4]であるため、1983年5月に現在の「同一局面・同一手番が4回」に改定された。改定のきっかけになったのは1983年3月8日の米長邦雄-谷川浩司戦(名人戦挑戦者決定リーグ:現在の順位戦A級)であり、この対局では60手以上千日手模様が続き、同一局面が9回出現している(谷川が打開し、米長が勝利)[6]。武者野勝巳がルール改正を提案し、可決された。同一局面4回であれば、同一手順を3回繰り返した時と同じであることから4回に制定された。
2019年10月1日、千日手に関する対局規定が改定され、「千日手が成立していても、両対局者が指し継いだ時点で千日手を打開したものとみなし、同一局面に戻らない限り、指し直しとはしない」ということが明文化された[7]。
- 千日手指し直し局の諸規定
千日手が成立した場合は「無勝負・指し直し」とし、現行の規定では、
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以上の規定で指し直し局を実施している。
1969年度(昭和44年度)までの規定では現在と異なり、上記「2」の指し直し局の実施は原則として翌日に実施することとし[8]、また上記「3」の指し直し局の持ち時間については、当初の持ち時間から双方2時間を減少して実施されていた[8]。
千日手に関する戦術・戦略
編集将棋の定跡には、両方が最善の手を指し続けた場合、千日手にならざるを得ない定跡が複数ある。例を挙げれば矢倉戦法における先手後手同型の総矢倉の形では、仕掛けたほうが負けるため千日手を選択せざるを得ない。米長邦雄など、この形でも千日手を打開し、自分が有利な方向に持っていこうとする手を考える棋士もいる。
また、伊藤果が案出した風車戦法では、ひたすら守るばかりで自分からは攻めず、千日手でも構わないという発想が存在している。千日手指し直しの場合は先手と後手がいれかわるため、若干有利である先手番を得るために、後手側が千日手にならざるを得ないような定跡に誘導することがあるのである。
千日手に持ちこむことが可能そうな局面ができた場合、千日手によらなければ劣勢となるならば、意図的に千日手に持ちこんで引き分けとし、次局に期待することを考えることとなる。 他方、千日手に持ちこまなくとも優勢である場合、千日手にして引き分けにするのは損であるため、他の手順で勝つことを模索するのが通例となる。
また、千日手にできる局面は、手数だけが伸びて局面には影響を及ぼさないため、4回に届かない間は持ち時間に追われる対局者の時間つなぎとして用いることも可能である。
『イメージと読みの将棋観』(2008年、日本将棋連盟)で藤井猛は戦略手に千日手を使う、後手番で戦略として先手に打開を迫るために使うのは好きだと述べ、振り飛車としては当然の作戦範囲で、後手番の不利をカバーする意味で必要なルールだとしている[注 5]。
千日手を巡る出来事
編集9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |
香 | 龍 | 桂 | 桂 | 香 | 一 | ||||
金 | 王 | 二 | |||||||
桂 | と | 銀 | 歩 | 歩 | 三 | ||||
歩 | 角 | 歩 | 四 | ||||||
歩 | 歩 | 五 | |||||||
歩 | 歩 | 銀 | 歩 | 六 | |||||
歩 | 馬 | 銀 | 七 | ||||||
歩 | 玉 | 銀 | 歩 | 八 | |||||
香 | 金 | 桂 | 香 | 九 |
- 1906年(明治39年)、関根金次郎と坂田三吉との戦い(関根香落ち)で、終盤、坂田が千日手の「攻め方打開」のルールを知らなかったとされ、無理に打開してペースが狂い惜敗したとされる。しかし、坂田が「千日手の当時のルールをしらなかった」エピソードがあったのは、1903年(明治36年)の関根が角または香を落とした一番だという説もあり[9][10]、そちらのほうが、「関根との一番で、千日手の打開をルールを知らずに強制的に負けにさせられた」という坂田の著書『将棋哲学』での記述と一致している。また、戯曲や映画作品の『王将』の中では、「坂田が、関根との初の戦いで、千日手を知らずに指し、ルールで強制的に負けにさせられた」と、誇張された表現になっている(実際は、坂田・関根戦の初戦ではない)。
- 1940年、第2期名人戦第3局の、木村義雄対土居市太郎の一戦で、二局連続の千日手となって批判が集まり、関根金次郎十三世名人が、それ以上の千日手が続くことを心配して、「シンキイッテンシテサスベシ」と電報を打った[11]。続く対局も千日手模様となったが、先手の土居が打開して勝利、この一局は名局とされ「定山渓の決戦」と呼ばれるようになった[12]。
- 1947年、第6期名人戦では、第5局(塚田正夫先手・木村義雄後手)は相矢倉戦で千日手模様となったが、木村が打開し優勢を築いた。しかし、木村にミスがあり塚田が勝利を収めた。当時の将棋世界に掲載された木村・塚田の対談記事(『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)に収録)によると、塚田は「作戦負けの将棋ですから千日手になれば成功と思っていました」、木村は「僕の方は千日手にしては割が悪いので、打開の道を考えたが、敵飛角の形が悪いから、九筋を強襲しても悪くないと信じて9五歩と突いた」と語った。両者2勝2敗1持将棋で迎えた第6局(木村先手・塚田後手)は千日手指し直しとなったが、指し直し局(当時は先後入替なし)では木村が「千日手を嫌って無理攻め」(『将棋評論(1947年8月号)』(将棋研究会刊行))あるいは「千日手を嫌ったのが指しすぎ」(『将棋五十年』(菅谷北斗星著、時事通信社刊行))となった結果、木村が敗れた。このことを第7局の観戦記を担当した作家の坂口安吾が厳しく指摘・批判し、「千日手を回避すると負けてしまう状況なら、勝負を重んじて千日手にするべきだ」と論じている(ちくま文庫版安吾全集第5巻収録「散る日本」より)。一方、『将棋評論』誌上では、金子金五郎が「名人戦に勝つことより棋道観を忠実に、果敢に、遂行した木村氏に光は耀いている」と評しており、見方が分かれている。なお、第7局(塚田先手、木村後手)も千日手となり、指し直しとなったが、当時は現在と異なり、持将棋は双方の0.5勝として扱われることに加え、千日手が2回続く場合は持将棋とする規程があった。そのため、第7局を2勝3敗1持将棋で迎えた木村は、指し直し局では千日手を避けなければ、番勝負敗退が決まる状況に追い込まれた。指し直し局は横歩取りから63手という短手数で塚田が快勝し名人位を獲得した。
- 1963年度の第18期順位戦での加藤一二三八段対丸田祐三八段の4回戦では千日手局が4回成立した。当時の新聞掲載観戦記によると、3度目の千日手までは同日に実施、数日後に実施した4度目の対局が4たびの千日手となり、その翌日に決着局となる5度目の対局が実施された。加藤は、同年度の第18期順位戦6回戦の熊谷達人八段との対局においても、4度の千日手成立のち5度目の対局を再度行なっている。
- 第18期(1979年度)十段戦大山康晴 対 加藤一二三王将の一戦では、加藤の攻めを大山が受け、95手目に千日手模様となった。しかし加藤は打開しようとせず、金銀の打つ順番を変える、馬を入る、不成にするなどで同一手順を回避しながら長引かせた。これに大山は激怒し、時計を止めて丸田祐三に電話し裁定を依頼するも、「現行のルールでは裁定できないから、指し続けてください」とあしらわれてしまった。結果、この手順の繰り返しと電話の間に加藤は打開の手順を読み、179手で勝利している。この対局では76手千日手模様が続き、最多の同一局面は8回出現していた。この後、前述の米長邦雄対谷川浩司戦でも同様の事例が発生し、千日手のルールが改定されることになった。
- 第24期順位戦(1969年度)B級2組の大原英二-山口千嶺戦(1970年1月20日対局)は千日手となり、当時の規定(「#ルールの変遷」参照)により翌21日に指し直し局が行なわれたが、指し直し局も再度千日手となった。両対局者のうち一方の大原は、その翌日の22日に清野静男との順位戦対局を行ない、また他方の山口は、その翌日の23日に松浦卓造との順位戦対局を行なっており、大原-山口戦の再差し直し局は最初の千日手局の4日後となる24日に行われた。二度の千日手が成立した結果、大原と山口はいずれも5日間で4局の順位戦対局を行うこととになり(千日手局2局を含む)[13]、大原は5日間中に3日連続で3局の順位戦対局を行うこととなった(千日手局2局を含む)。
- 第40期名人戦(1982年度)名人戦中原誠名人対加藤一二三十段の七番勝負は、持将棋1局と千日手2局を含む「十番勝負」となり、4勝3敗で加藤が悲願の名人位を獲得した。持将棋も千日手も後日指し直しとしていたため、1982年4月13日に第1局1日目が開始の「十番勝負」が決着したのは、3ヶ月半後の7月31日であった。
- 第63期棋聖戦五番勝負(1993年12月-1994年2月)の第3局では千日手成立後の指し直し局でも2度目の千日手局が成立、規定では30分後に再指し直しだが、2局連続の千日手のため特別に後日の指し直しとし、当初日程の第4局を第3局再指し直し局にスライドさせる対応をした。
- 第44期王将戦七番勝負最終局(1995年3月)では、谷川浩司王将が羽生善治竜王・名人(六冠)を千日手指し直しの末に破り、羽生の七冠制覇を阻止した。
- 第15期竜王戦七番勝負(2002年10月-2003年1月)の羽生善治竜王対阿部隆七段)では、台北で実施された第1局が千日手2回となり、第1局の指し直し局を第2局の日程にずれ込ませ、以降繰り下げとなる異例の措置が取られた。
- 第51期王位戦(2010年度)七番勝負では、第5局、第6局で、深浦康市王位対広瀬章人六段の対局で、いずれも相穴熊の状態から千日手が成立した。第5局指し直し局は両者穴熊に囲わない対局を広瀬が勝利。第6局指し直し局は、広瀬は振り飛車穴熊、あとがない深浦は銀冠に囲い、激しい攻め合いとなったが、この対局も広瀬が攻め合いを制し、初タイトル・王位を奪取した。
- 第61回NHK杯1回戦佐藤康光九段対永瀬拓矢四段戦(2011年6月5日放送)では同棋戦で史上初[14]となる2回連続千日手が発生し、再指し直し局で131手[15]で永瀬が勝利している(対局内容は最初は先手番永瀬の升田式石田流対後手番佐藤の居飛車での振飛車対抗形、指し直し局は先手番佐藤は、前局同様居飛車での対抗形対後手番永瀬はゴキゲン中飛車、再指し直し局は最初の対局同様先手番永瀬の升田式石田流対後手番佐藤の居飛車での振り飛車対抗形)。
- 2012年10月3日の第60期王座戦第4局の▲渡辺明王座△羽生善治二冠戦では、羽生が122手に△6六銀を指して局面が膠着する。22時9分まで142手を指したところで千日手となった。22時39分〜深夜2時2分に行われた指し直し局で羽生が勝利。渡辺は「最後は勝ちになったのかと思っていましたが△6六銀とはすごい手があるものです」と感想を述べた[16]。なお、千日手局・指し直し局合わせて2012年度の将棋大賞名局賞を受賞した。
- 2014年9月2日の第27期竜王戦5組昇級者決定戦、伊藤真吾対宮田敦史戦は3回連続千日手指し直しとなった。1局目は序盤で午後5時3分に千日手に、2局目は午後11時30分に中盤で千日手、3局目は翌9月3日の午前3時12分に千日手となった。4局目が終ったのは午前6時51分(結果は宮田の勝ち)。4局合計の指し手数は405手だった[17]。
- 2019年4月10日の第77期名人戦第1局、佐藤天彦対豊島将之の一番が千日手となった。名人戦での千日手は16年ぶりとなる[18]。千日手成立時刻が1日目の午後3時以降であったため、当時の対局規定に基づき1日目は千日手成立で終了[注 7][19]。2日目朝から「一日制」での指し直し局を開始した。1日目に差し掛けとならなかったため封じ手も行われなかった[20]。
- 2020年4月17日の第33期竜王戦2組準決勝、松尾歩対佐々木勇気戦において午後9時48分、千日手が成立。新型コロナウイルス感染症の流行に伴う緊急事態宣言下での対局であり、対局者・関係者への安全を考えた両者の合意と連盟側の協議の下、通常休憩を挟んでそのまま行われる指し直し対局の後日への延期が決定された[21][22]。4月30日午後1時より行われた指し直し局は、通常の千日手指し直しと同様に手番の入替と持ち時間の加算調整が行われ、佐々木が勝利して1組昇級と決勝トーナメント進出を決めた[23]。
- 2022年6月3日の第93期棋聖戦第1局、藤井聡太棋聖対永瀬拓矢王座戦は1日で2回連続千日手指し直しとなった。1度目の千日手局は16時17分に成立、2度目の千日手局は17時38分に成立した。タイトル戦では異例となる、一日で3局目となる再指し直し局が30分後に開始され、21時42分に永瀬王座の勝利で決着した。
- 2023年5月28日の第8期叡王戦第4局、藤井聡太叡王対菅井竜也八段戦は1日で2回連続千日手指し直しとなった。1度目の千日手局は10時51分に成立、2度目の千日手局は18時32分に成立した。3度目の指し直し局は19時15分に開始され、21時08分に藤井叡王の勝利で決着。3勝1敗(2千日手)で叡王のタイトルを防衛した。
チェスにおける千日手
編集チェスでは千日手は、スリーフォールド・レピティション (Threefold repetition、同形三復)、または単にレペティションと呼ばれている。相手の手番で同一局面が3回生じたとき、または自分の次の手番で同一局面が3回生じるときに引き分け(パーペチュアル・ドロー)となる。ただし自動的に引き分けになるのではなく、自分の手番の時に指摘しなければならない。公式戦では、審判員(アービター)に申し立てる必要がある。
連続チェックの千日手は、特にパーペチュアル・チェック (perpetual check)と呼ばれている。終盤戦で不利な側がパーペチュアル・チェックで強制的に引き分けに持ち込むのは、チェスの基本戦術の一つである。一般的にパーペチュアル・チェックは、下図のようなクイーン・エンディングで登場することが多い。
a | b | c | d | e | f | g | h | ||
8 | 8 | ||||||||
7 | 7 | ||||||||
6 | 6 | ||||||||
5 | 5 | ||||||||
4 | 4 | ||||||||
3 | 3 | ||||||||
2 | 2 | ||||||||
1 | 1 | ||||||||
a | b | c | d | e | f | g | h |
a | b | c | d | e | f | g | h | ||
8 | 8 | ||||||||
7 | 7 | ||||||||
6 | 6 | ||||||||
5 | 5 | ||||||||
4 | 4 | ||||||||
3 | 3 | ||||||||
2 | 2 | ||||||||
1 | 1 | ||||||||
a | b | c | d | e | f | g | h |
上図Aで、黒のキングが逃げられるマスはa7だけである。しかし次に白がQc7+(上図B)とすると、また黒キングはa8に戻らなければならない。この動き(図A→図B→図A→図B)は、白が手を変えない限り永遠に終わらない。動きを2回繰り返し、図Aが3度生じた時点で黒が指摘すれば(または白が自分の手番に、Qc8+と指せば図Aが3度生じることを指摘すれば)、ゲームはスリーフォールド・レピティションとなり、引き分けが成立する。
記録に残っているパーペチュアル・チェックの最古の例として、1750年に行われた対局者不明の棋譜がある[24](棋譜は英語版perpetual checkを参照)。
その他のボードゲームにおける千日手
編集- シャンチー
- 連続王手の千日手(長将、チャンジャン)は禁じ手であり、王手をかけている方は3回同じ局面が出現するまでに手を変えなければならない。連続王手でない場合は「一方が手を変えなければならない場合」と、引き分けになる場合(和棋、ホーチー)があり、状況によってどちらになるかの詳細なルールは複雑なものとなっている。
- チャンギ
- チェスと同じく、同一局面が3回出現すればどんな場合でも引き分けとなる。
- マークルック
- 引き分けとなる。ただし、連続王手の千日手は王手をかけている側が手を変えなければならない。
- どうぶつしょうぎ
- チェスと同じく、同一局面が3回出現すればどんな場合でも引き分けとなる。
将棋類のボードゲームではないが、囲碁でも三コウや長生などによって同一局面が反復されることがあり、日本棋院の公式ルールでは対局者同士の合意によって引き分けとする。
比喩としての「千日手」
編集「同じことを繰り返し、いつまでも終わることない攻防」を「千日手のように」と比喩表現で使用されることがある(「いたちごっこ」、メビウスの輪、賽の河原)。
脚注
編集注釈
編集- ^ 同一局面に戻る手順AおよびBを、ABBの順で繰り返した。棋譜および図面は[1](スポンサーである日本たばこのサイト)の54手目から66手目を参照。
- ^ 一説に、千日手は仕掛けたほうが負けともされていたともいうが、公式ルールなどの整備は行われていなかったようである。
- ^ 先手は▲8七銀と▲8八金、後手は△6七銀打と△7九金で7八の駒を取り合う展開が続いた。
- ^ 同一局面に戻る手順にAとBがあるとき、A-B-BA-BAAB-BAABABBA-... と、それまでの手順を逆にしてつなげることで、同一手順3回(すなわち、AAA, BBB, ABABAB, BABABA、など)を回避しながら同一局面を繰り返すことができる。
- ^ 但し、残り1時間で指し直すのはさすがにきついとしている。
- ^ △5七馬▲3九桂の交換が入る前も千日手模様が続いていた。この後、△3七銀不成▲同銀△2六銀▲2八銀…と不成と成り、△2六金などを続けた
- ^ 第77期名人戦での対局規定では基準時間は1日目の午後3時。その後に規定が改まり、現在は1日目午後4時前の千日手成立では当日指し直しとなる。
出典
編集- ^ “対局規定(抄録)”. 日本将棋連盟. 2017年6月29日閲覧。
- ^ “名人戦第1局、1日目で千日手 11日に指し直し”. 毎日新聞. 2019年4月10日閲覧。
- ^ “よくある質問 プロ棋戦の規定等について”. 日本将棋連盟. 2022年6月5日閲覧。
- ^ a b 『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)P.56
- ^ もずいろ 記憶に残るあの千日手による。同サイトは、この対局については『菅谷北斗星選集 観戦記篇』から情報を得たとしている。
- ^ “名人戦では16年ぶり 将棋の「千日手」ってなんですか?”. 観る将棋、読む将棋 | 文春オンライン. 株式会社文藝春秋. p. 2 (2019年4月19日). 2022年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月5日閲覧。
- ^ 日本将棋連盟 よくある質問 対局規定(抄録) 第2章 総則 第6条Aの3。
- ^ a b 『昭和45年版 将棋年鑑「千日手指し直しの規約変更について」』日本将棋連盟/国立国会図書館デジタルコレクション、1970年8月10日、85頁。
- ^ 内藤国雄『阪田三吉名局集』(講談社)P.21
- ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.55
- ^ 土居市太郎『第一期名人戦・自戦記』(恒文社)解説・加古明光
- ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.88-89
- ^ 『昭和45年版 将棋年鑑「対局日誌」』日本将棋連盟/国立国会図書館デジタルコレクション、1970年8月10日、349頁。
- ^ 同日の放送で、司会・聞き手の矢内理絵子談。
- ^ “2011年06月05日第61回NHK杯1回戦第10局 千日手指し直し局(決定局)”. NHK. 2013年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月23日閲覧。
- ^ 王座戦第4局。- 渡辺明ブログ
- ^ 『田丸昇のと金横歩き』[2]、『将棋世界」2014年11月号
- ^ 将棋名人戦、16年ぶりに千日手 第1局指し直しに 産経新聞 2019年4月10日
- ^ 桑高克直(くわっち) [@shallvino] (2024年2月5日). "名人戦の場合、対局1日目に千日手が発生した場合、その発生タイミングによって指し直し局が当日になったり翌日になったりします(今は午後4時になっていますが、第77期第1局の時点は午後3時でした)。". X(旧Twitter)より2024年2月5日閲覧。
- ^ 渡部壮大『佐藤天彦名人VS豊島将之二冠、名人戦七番勝負を振り返る|将棋コラム』日本将棋連盟、2019年5月21日 。
- ^ 4/17 竜王戦2組 松尾歩八段 対 佐々木勇気七段戦に関してのお知らせ 日本将棋連盟 2020年4月18日
- ^ 緊急事態宣言下の対局で千日手、異例の後日指し直しへ 竜王戦2組準決勝・松尾歩八段-佐々木勇気七段戦 松本博文 2020年4月18日
- ^ 佐々木勇気七段(25)竜王戦本戦進出決定! 2組準決勝指し直し局で松尾歩八段(40歳)に大逆転勝利 松本博文 2020年4月30日
- ^ Levy, David; O'Connell, Kevin (1981). Oxford Encyclopedia of Chess Games. 1 (1485-1866). Oxford University Press. ISBN 0-19-217571-8
参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 千日手考(もずいろ 風変わりな将棋の部屋)