国分新七郎
大日本帝国陸軍軍人
国分 新七郎(こくぶん しんしちろう、1894年(明治27年)11月9日[1] - 1984年(昭和59年)6月1日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
国分 新七郎 | |
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生誕 |
1894年11月9日 日本 三重県 |
死没 | 1984年6月1日(89歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1916年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集1894年(明治27年)に三重県で生まれた[1]。陸軍士官学校第28期、陸軍大学校第35期卒業[1]。1936年(昭和11年)12月に関東軍参謀に就任し[2]、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級[2]、11月1日に第5師団参謀(北支那方面軍)に転じ[2]、日中戦争に出動[1]。チャハルから平型関を抜き[1]、忻口鎮の激戦を戦い[1]、太原を攻略[1]。台児荘の戦いにも出動したが苦戦を強いられた[1]。1938年(昭和13年)6月に陸軍省高級副官に転じ[2]、1939年(昭和14年)8月に歩兵第46連隊長を経て[2]、1940年(昭和15年)8月に陸軍士官学校生徒隊長に就任した[2]。
1941年(昭和16年)8月25日に陸軍少将に進級し[2]、9月11日に陸軍士官学校教授部長に就任した[1]。1942年(昭和17年)6月に第1独立守備隊長(関東防衛軍)に転じ[1]、1943年(昭和18年)6月に第16軍参謀長(第7方面軍)となり[1]、ジャワ島に出征[1]。1944年(昭和19年)10月26日に陸軍中将に進級し[2]、11月14日に第46師団長(第2方面軍・第19軍)に親補され[1]、豪北方面に出動[1]。その後、第7方面軍隷下に編入され[1]、クルアンで終戦を迎えた[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。