国塩耕一郎
国塩 耕一郎(くにしお こういちろう、1905年(明治38年)9月6日[1] - 1986年(昭和61年)6月7日[1])は、昭和期の内務・警察官僚、実業家。最後の官選茨城県知事、日本音楽著作権協会理事長。
経歴
編集岡山県赤磐郡(後の山陽町、現在の赤磐市)で、国塩達太の長男として生まれる[1][2]。静岡県立静岡中学校[3]、第一高等学校を卒業[4]。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し広島県属となる[1][2][4]。
以後、地方警視・愛知県警察部保安課長を経て[2]、1935年(昭和10年)8月、警視庁警視・保安課長に就任。警官音楽隊(警視庁音楽隊)を創設した[5]。1937年(昭和12年)7月21日、内務省警保局図書課勤務となりプラーゲ旋風への対策に当たる[5]。さらに、情報局勤務、厚生省勤労局配置課長などを歴任[2]。
厚生省職業局技能課長に在任の1943年(昭和18年)夏、軍用石油の確保のため100トン級小型木造船の大船団による石油輸送計画を立てた人物が、木造船建造のための技術者の確保について依頼してきた。国塩が艦政本部に伝えると、木造小型船で荒天の南シナ海を航行するのは無理と反対され、そのことを依頼者に伝えると、艦政本部や政府の行政まで批判してきた。国塩が反論すると、後日、東京憲兵隊に連行され「東條内閣を打破せよと叫んだのは本当か」と尋問された[5]。国塩は政府の戦争遂行政策への疑問をいだくようになり、同年末に辞表を提出し1944年(昭和19年)7月に退官した[2][5]。
終戦を迎え、戦後の混乱収拾のため官界に復帰を決意し、1945年(昭和20年)9月、広島県教育民生部長に就任[5]。終戦連絡中央事務局部長[2]を経て、1947年(昭和22年)3月14日、茨城県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月12日に知事を退任[6]。同年7月2日、経済安定本部監査局長に就任[7]。1948年(昭和23年)8月1日、中央経済調査庁査察部長に就任し1949年(昭和24年)12月22日に退官した[5][8]。
その後、日本音楽著作権協会会長、同理事長、同顧問、ニッタ相談役、チヨダシューズ取締役などを務めた[1]。
1960年(昭和35年)11月20日執行の第29回衆議院議員総選挙に静岡県第1区から民主社会党公認で立候補したが落選した[9]。
人物
編集家族・親族
編集- 国塩家
- 親戚
著作
編集- 『近代社会思想の解説』松華堂書店、1933年。
- 国塩他『最新警察教科書』法制時報社、1933年。
- 『決戰國民動員』同盟戰時特輯;20、同盟通信社、1944年。
- 『国塩耕一郎著作権論文集』日本音楽著作権協会、1987年。
- 訳書
- 『職業檢査』技能研究資料;第1輯 職業協會、1941年。
脚注
編集- ^ a b c d e 『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』222頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第15版 上』ク12頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月13日閲覧。
- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 52頁。
- ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』273頁。
- ^ a b c d e f 「旧著作権法をめぐる人々」47-49頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』256頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』479頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』480頁。
- ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』209頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第14版 上』ク36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月13日閲覧。
- ^ a b c d 『現代財界家系譜 第1巻』377頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月31日閲覧。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 『現代財界家系譜 第1巻』現代名士家系譜刊行会、1968年。
- 日外アソシエーツ編『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ、1988年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 吉村保「旧著作権法をめぐる人々」『コピライト』v.36, no.6、著作権情報センター、1999年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
外部リンク
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