坂井敬義
明治から大正期の地主、政治家
坂井 敬義(さかい たかよし[1] / けいぎ[2]、1853年3月21日(嘉永6年2月12日[1])- 1925年(大正14年)7月19日[1][2][3])は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員、富山県射水郡下村長。
経歴
編集越中国射水郡下村宿[1](富山県[2]射水郡下村[3]を経て現射水市)で、本陣を務めた坂井家に生まれた[1]。富山藩儒・岡田呉陽に師事し漢籍を修めた[1][2][3]。
1873年(明治6年)新川県14大区副戸長に就任[1]。自由民権運動に加わる[1]。1884年(明治17年)富山県会議員に選出された[1]。1889年(明治22年)下村初代村長に就任[1]。同村会議員も務めた[2]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(富山県第3区、自由党)で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任[2][3]。同年8月、第6回総選挙(富山県第3区)で稲垣示と調整が不調で惨敗した[1][4]。
1899年(明治32年)射水郡会議員となり[1]、同議長も務めた[2][3]。その後、射水郡教育会長、富山県教育会副会長、射水郡農会長、県農会議員、帝国農会議員などを務め[1][2][3]、地域の振興に尽力した[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『富山大百科事典 上巻』北日本新聞社、1994年。