堀内 素堂(ほりのうち そどう、享和元年(1801年) - 安政元年3月13日1854年4月10日))は、江戸時代医者は忠寛(ただひろ)、幼名忠公(ただきみ)、字は君栗、忠竜、忠亮、素堂は[1]。贈従五位昭和4年)。

米沢城下の元籠町(現山形県米沢市)で堀内忠明の次男として生まれる。生家は代々米沢藩の医者の家系。藩校興譲館に学び、その後江戸蘭学医杉田立卿(杉田玄白の子)らに学ぶ。米沢藩の藩医となり、22歳のとき第11代藩主上杉斉定の側医となる。後年さらに長崎に学んだ。

フフェランド(C. W. Hufeland)著の医学書を訳し、日本で最初の小児科医学書『幼幼精義』を出版した。さらに天然痘に対する種痘の効果を説き、日本に西洋医学を広めた。

弘化2年(1845年) 長崎時代の知人である高野長英を匿った逸話も残る。

昭和3年(1928年)、従五位を追贈された[2]

主要著作

編集
  • 『幼幼精義』翻訳(1843年)

脚注

編集
  1. ^ 堀内素堂(読み)ほりうち・そどうコトバンク
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.57

参考文献

編集
  • 米沢児童文化協会 編『郷土に光をかかげた人々』(米沢児童文化協会、1989年改訂2版)