墾田永年私財法

日本の奈良時代の法令

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日743年6月23日)に発布された天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した田地)の耕作権の永年私財化を認める法令である。

墾田永世私財法(こんでんえいせいしざいほう[1])、墾田永世私有法(こんでんえいせいしゆうほう[1])、墾田永代私有令(こんでんえいたいしゆうれい[2])ともいう。荘園発生の基礎となった法令である[3]

原文

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類聚三代格

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墾田永年私財法の原文は『類聚三代格』巻十五に収録されている。

勅、墾田拠養老七年格、限満之後依例収穫、由是農夫怠倦開地復荒、自今以後、任為私財無論三世一身、悉咸永年莫取、其国司在任之日、墾田一依前格、但人為開田占地者、先就国申請、然後開之、不得因茲占請百姓有妨之地、若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。

天平十五年五月廿七日 — 『類聚三代格』巻十五 墾田并佃事

現代日本語訳は下記の通り。

聖武天皇が)命令する。聞くところによれば、これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、満期になれば収公し、通例どおり(国有田として他の耕作者へ)授与していた。しかし、そのために(開墾した)農民は意欲を失って怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、私財とすることを認め、三世一身にかかわらず、全て永年にわたり収公してはならない。在任中の国司による墾田の扱いは、前の格に準拠せよ。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請し、しかる後に開墾せよ。この規定を根拠として公衆に妨げのある土地を占有することはできない。もし許可を受けた者が3年経っても開墾しない場合は、他の者からの開墾の申請を受け付ける。

  天平15年5月27日

続日本紀

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続日本紀』巻十五の同日条を見ると、同じく天皇による命令形式であるとして出され、その中に位階に応じて私有面積の上限を定めた規定が入っていたことが分かる。

この部分は、位階に応じて私有面積の上限を定めた規定であるが、この部分が上記の『類聚三代格』では削除されている。

乙丑。詔曰。如聞。墾田依養老七年格。限滿之後。依例收授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任爲私財無論三世一身。咸悉永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領少領三十町。主政主帳十町。若有先給地過多茲限。便即還公。姦作隱欺科罪如法。國司在任之日。墾田一依前格。 — 『続日本紀』巻十五 五月乙丑の条

現代語訳:

……(その土地の広さは)親王の一品と一位には五百町、二品と二位には四百町、三品・四品と三位には三百町、四位には二百町、五位には百町、六位以下八位以上には五十町、初位以下(無位の)庶人に至るまでは十町(とせよ)。ただし、郡司には、大領・少領には三十町、主政・主帳には十町とせよ。もし以前に与えられた土地で、この限度よりも多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、罪を科すことは法の如くにする。…… — 直木孝次郎ほか訳注 『続日本紀 2』 平凡社〈東洋文庫〉(ISBN 4-582-80489-6)による)

背景

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律令制班田収授制開始後、8世紀初頭には人口増大に対し、班給すべき口分田が不足し始め、墾田への動機付けを強める政策が始まった。

養老7年(723年)に出された三世一身法によって、墾田は孫までの3代の間に私財化が認められたが、収公期限が引き続き定められたため、収公の時期が迫ると荒廃することがあった[4]

また当時の日本は、天平の疫病大流行天平7年(735年)から同9年(737年))により大打撃を受けたところでもあった。

その数年後に出された墾田永年私財法は、墾田を永年にわたり私財とすることを可能とし、社会復興策の一面も強かった[5]

このほか、『日本大百科全書』では天平15年に左大臣に昇進した橘諸兄の政策的意図もあったとしている[6]

内容

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三世一身法にあった収公期限を廃止して、墾田を永年にわたり私財とすることを可能とした[6]。ただし、下記の制限が定められた。

  • 新規の開墾地で適用され、既墾地では引き続き班田収授法に準拠する[6]
  • 私財とできる面積は位階により10から500までと定められた[6]
  • 国司の許可を必要とする[3]
  • 国司の許可から3年内に開墾を完了させる[3](3年内に着手すべきとする説もある[7])。
  • 百姓の妨げとならないこと[7]

法の中断

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道鏡称徳天皇の後見で太政大臣禅師に就くと、天平神護元年3月6日765年3月31日)に、過熱した墾田を止めるために、寺院や農民の小規模な開墾は許すが[6]、墾田私有を原則的に禁止する旨の太政官符が発布された[8]

しかし称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位したことで道鏡が失脚すると、宝亀3年10月14日772年11月13日)に、墾田私有を原則的に許可するとの太政官符が発布された[8](ただし百姓は苦しませないよう留意が求められた)。

影響

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墾田私有が認められたため、豪族や社寺が開墾を進めて土地私有に動き、荘園制成立と班田収授法崩壊の原因を作った[6][7]。この動きにより成立した荘園は自墾地系荘園または墾田地系荘園と呼ばれる[9]

脚注

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  1. ^ a b 墾田永年私財法」『デジタル大辞泉』https://kotobank.jp/word/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%B9%B4%E7%A7%81%E8%B2%A1%E6%B3%95コトバンクより2023年4月16日閲覧 
  2. ^ 墾田永代私有令」『旺文社日本史事典 三訂版』https://kotobank.jp/word/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E4%BB%A3%E7%A7%81%E6%9C%89%E4%BB%A4コトバンクより2023年4月17日閲覧 
  3. ^ a b c 墾田永年私財法」『百科事典マイペディア』https://kotobank.jp/word/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%B9%B4%E7%A7%81%E8%B2%A1%E6%B3%95コトバンクより2023年4月17日閲覧 
  4. ^ 墾田永年私財法」『世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%B9%B4%E7%A7%81%E8%B2%A1%E6%B3%95コトバンクより2023年4月16日閲覧 
  5. ^ Farris, William Wayne (1985). Population, Disease, and Land in Early Japan, 645-900 (英語). Harvard University Asia Center. p. 69. ISBN 978-0674690059
  6. ^ a b c d e f 墾田永年私財法」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%B9%B4%E7%A7%81%E8%B2%A1%E6%B3%95コトバンクより2023年4月17日閲覧 
  7. ^ a b c 墾田永年私財法」『旺文社日本史事典 三訂版』https://kotobank.jp/word/%E5%A2%BE%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%B9%B4%E7%A7%81%E8%B2%A1%E6%B3%95コトバンクより2023年4月17日閲覧 
  8. ^ a b 類聚三代格』巻十五 墾田并佃事 「聴墾田事」の条。
  9. ^ 自墾地系荘園」『デジタル大辞泉』https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%A2%BE%E5%9C%B0%E7%B3%BB%E8%8D%98%E5%9C%92コトバンクより2023年4月17日閲覧 

関連図書

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関連項目

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