女衒 ZEGEN
『女衒 ZEGEN』(ぜげん、Zegen)は、1987年公開の日本映画である。東映・今村プロダクション製作、東映配給。
女衒 ZEGEN | |
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監督 | 今村昌平 |
脚本 |
今村昌平 岡部耕大 |
出演者 |
緒形拳 倍賞美津子 |
音楽 | 池辺晋一郎 |
撮影 | 栃沢正夫 |
編集 | 岡安肇 |
製作会社 |
東映 今村プロダクション |
配給 | 東映 |
公開 | 1987年9月5日 |
上映時間 | 124分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
明治後期から昭和初期に東南アジアで女郎屋経営や女衒などをしていたという村岡伊平治の生涯を描く[1]。監督は映画『楢山節考』以来4年ぶりのメガホンを執った今村昌平で、1987年の第40回カンヌ国際映画祭に出品した[2]。
あらすじ
編集香港を目の前にして伊平治、長太、源吉は4年にわたる船上での労働から逃れるため海に飛び込む。貿易商になると言う伊平治だったが、香港での生活が落ち着く前に上原大尉から満州での対ロシアの諜報活動を命じられ、国の大義に生きることを叩きこまれる。しかし、ロシア側に知られることとなり、香港に舞い戻る。そして香港では、旧知の朝長がシンガポールで身請けしてきたという女性と会う。彼女は島原時代の幼なじみ、しほだった。伊平治は朝長からしほを身請けし、また娼婦として捕らわれの身となっていた日本人女性たちを救い出すが、彼女たちを養うには資金が足りず、「おなごば貿易」したらどうかという、しほのすすめもあって「大和撫子の売買の仲介」を始めることになる。女衒である。お国のためである。シンガポールではアジアにある日本人娼館の国営化を進言する。
キャスト
編集スタッフ
編集製作
編集企画
編集今村昌平は、1981年の『ええじゃないか』の後[3]、当時の岡田茂東映社長に会って「死ぬまでにどうしてもやりたい企画が三本ある」と話し、『楢山節考』『黒い雨』『村岡伊平治(女衒 ZEGEN)』の3本を挙げたら「3本ともうちでやりましょう」と引き受けてくれたと述べている[3][4]。3本とも今村が長年温めていた企画で『村岡伊平治』も20年来の企画であった[5][6]。
製作
編集1983年の『楢山節考』が東映には珍しい国際映画賞をもたらしたことから[7]、充分な製作費が今村に与えられた[2][8]。製作費8億円[5][9]。今村は『楢山節考』の次は『黒い雨』を考えていたが、青春時代を共有した浦山桐郎が急死したことで、自分にも時間がない、『黒い雨』よりエネルギーがいる『村岡伊平治伝』を先にやりたいと決意した[10][11]。『楢山節考』から本作の製作まで間が空いたのは、今村の学校、日本映画学校の第1回作品『君は裸足の神を見たか』(ATG)のプロデュース業や学校の移転作業で多忙だったためで[5][12]、1986年1月に東映と今村プロの提携製作が決まると共同脚本の岡部耕大と製作準備に入り、今村は単独で1986年元旦よりシナハン・ロケハンを始め[13]、正式には1986年3月下旬から、4月上旬にかけて、台湾、マレーシアでシナハン・ロケハンを実施し製作がスタートした[5][10]。
製作発表
編集1986年8月22日、東京會舘で製作発表が開かれた[9][14]。岡田東映社長は「女衒のテーマは今村さんが探求してきた素材の一つ。シナリオも良く出来ているし期待している。来年度大作にする」と話した[14]。「東映と今村君でリスクを背負い合ってやる。このテのものは監督の情念の凄さで作品の出来栄え、興行価値が決まる。異色作になる。事と次第で大きく化けるテのものだ」[15]、「東映が不得意なものは全部才能のある人に任せたらいい。全部任せてひと言もいわない方がいい。その代わり、君の方も背水の陣でやってくれと伝えた」などと話した[16]。
本作製作中にも五社英雄が東映で女衒ものを連作していたため[17]、岡田は1987年の『キネマ旬報』のインタビューで「女衒ものはもうない」「今村さんがちょうどうまい具合に企画を持ってきた」[17]、五社や今村が東映以外で撮ると上手くいかないとの評価については[17]、「僕が作り方のヒントを最初にやるんだ。そうすると彼らは職人中の職人だから、こなすのも早いんだ」などと話した[17]。
脚本
編集池端俊策は1979年の『復讐するは我にあり』の後、今村から「俺がやりたい原作は『楢山節考』『黒い雨』『村岡伊平治(女衒 ZEGEN)』だ」と言われ、池端が「『村岡伊平治』をやらして下さい」と言ったら、「分かった、テレビでもやりながらでもいいから考えてろ」と資料を渡されたと話している[18]。しかし脚本クレジットは、今村と劇作家・岡部耕大の共同脚本である。岡部の演出する芝居の力強さに感心した今村が1985年12月末、岡部へ脚本を依頼した[13]。
タイトル
編集当初は「村岡伊平治伝」などの仮タイトルが付いていたが[17]、岡田社長が「あまりいいタイトルでない、と今村に言ったら、今村が『女衒』というタイトルを考えてきた」と話している[17]。封切り時のタイトルは『女衒』で[19]、日本映画製作者連盟や文化庁日本映画情報システムのサイトでもタイトルは『女衒』である[20]。1988年発行『日本映画監督全集』の今村の項でも『女衒』と記載されているが[21]、1998年発行の『ぴあシネマクラブ』では『女衒・ZEGEN』と記載されており[22]、1990年代に『女衒 ZEGEN』というタイトルの使用が増えてきたものと見られ、今日では混在している[23]。東映ビデオでも『女衒 ZEGEN』となっている[24]。
撮影
編集当初、1986年7月にクランクイン予定だったが、脚本に難航し1986年9月2日に香港からクランクイン[14]。マレーシアの古い港町・マラッカにオープンセットを作り、ここを拠点に撮影が行われた[2][5][25]。全俳優に日焼け命令が出され、撮影以外の時間は日焼けに励み[25]、『楢山節考』撮影時の山奥での粗食と違い[26]、毎日中華料理の円卓を囲み、毎日酒盛りをするお祭りのような日々だったといわれる[25][27]。
ただ録音技師は大変な目に遭い、マラッカはバイクや車のノイズが酷く、明治時代の東南アジア設定のため、それらノイズはカットしなければならない。現地のコーディネーターに「音を止めてくれ」と頼んでも近くに三叉路や六叉路が方々にあり、すべての音は止められず、今村作品は同録が基本で、アフレコは有り得ず、録音の紅谷愃一は毎日ノイズのストレスがたまって、頭が真っ白になったという[12]。
1986年9月にマカオ、香港、台湾台北でロケし、10月3日に一旦帰国[12]。その後のマレーシアロケが1986年12月初旬まであり、12月10日帰国[12]。1987年1月21日から、最後の北海道ロケがサロマ湖と網走刑務所の表で行われ[12]、1987年2月6日クランクアップ[12][27]。
『女衒』の製作工程については垣井道弘の1987年の著書『今村昌平の制作現場』に、ほぼ丸ごと一冊詳しく書かれている。
作品の評価
編集興行成績
編集サッパリお客が入らず、惨憺たる成績[28][29]。配収3億円[30]。少ない観客の平均年齢は40歳[29]。ヤングにはタイトルからして読めなかった[29]。東映は予定より一週間早く上映を打ち切り、極道筋の方がたよりになると『極道の妻たちII』に差し替えた[29]。第40回カンヌ国際映画祭に出品したものの、ほとんど無視された[28]。
脚注
編集- ^ 川西玲子『映画が語る昭和史 いつもヒロインたちがいた』ランダムハウス講談社、2008年、17–18頁頁。ISBN 978-4-27-000392-3。
- ^ a b c 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】海外ロケ編(中)「女衒」 緒形拳の番宣ドタキャン カンヌでは酷評、興行大惨敗 (1/2ページ)
- ^ a b 映画は狂気 2010, p. 140.
- ^ 垣井 1987, pp. 40–41.
- ^ a b c d e 「新作情報 日本映画ニュース・スコープ」『キネマ旬報』1986年5月下旬号、キネマ旬報社、102頁。
- ^ ぴあ映画チラシ
- ^ 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年3月、316-317頁。
- ^ 「大島渚、今村昌平ら大物監督たちも次回作に向かって発進!」『映画情報』、国際情報社、1984年3月号、57頁。
- ^ a b 垣井 1987, pp. 61–63.
- ^ a b 垣井 1987, p. 46.
- ^ 撮る 2001, pp. 76–77.
- ^ a b c d e f 紅谷 2022, pp. 187–193.
- ^ a b 垣井 1987, pp. 47–49.
- ^ a b c 『シナリオ』1986年11月号、日本シナリオ作家協会、94頁。
- ^ 活動屋人生 2012, pp. 207–208.
- ^ 活動屋人生 2012, p. 192.
- ^ a b c d e f 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして」『キネマ旬報』1987年3月上旬号、キネマ旬報社、94–95頁。
- ^ 荒井晴彦. “今村昌平を語る リアルと寓意の間に インタビュー・池端俊策”. 「映画芸術」2006年秋 第417号 発行:編集プロダクション映芸 76–80頁。
- ^ 『村岡伊平治自伝』(今村 昌平):講談社文庫|講談社BOOK倶楽部
- ^ “女衒”. 日本映画製作者連盟. 2018年2月28日閲覧。女衒 文化庁日本映画情報システム.2018年2月28日閲覧。
- ^ 『日本映画監督全集』キネマ旬報社、1988年、49–51頁頁。
- ^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、397頁。ISBN 4-89215-904-2。
- ^ 在ギリシャ日本国大使館 広報文化 - Embassy of Japan in Greece
- ^ 女衒 ZEGEN | 東映ビデオ株式会社
- ^ a b c 日本映画学校 OB牧場 - 株式会社シネマネストJAPAN
- ^ 日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』新潮社、2012年、130-134頁。ISBN 978-410333231-2。
- ^ a b 垣井道弘「『女衒』特集Ⅲ監督インタビュー」『キネマ旬報』1987年9月上旬号、キネマ旬報社、102頁。
- ^ a b 香取 2004, pp. 400.
- ^ a b c d 「ついに『女衒』敗れたり」『週刊新潮』1987年10月1日号、新潮社、17頁。
- ^ 高岩淡(東映・専務取締役)・鈴木常承(東映・常務取締役営業部長)・小野田啓 (東映・役員待遇宣伝部長)、聞き手・松崎輝夫「本誌・特別インタビュー 『夏から新春へ強力布陣そろう―東映、第66期の大攻勢を語る』」『映画時報』1988年3、4月号、映画時報社、6頁。
参考文献
編集- 垣井道弘『今村昌平の制作現場』講談社、1987年。ISBN 978-4-06-203583-5。
- 香取俊介『今村昌平伝説』河出書房新社、2004年。ISBN 4-309-01605-7。
- 今村昌平『映画は狂気の旅である』日本図書センター、2010年。ISBN 978-4-284-70045-0。 ※「映画は狂気の旅である」(日本経済新聞社、2004年)の再出版。
- 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4。
- 紅谷愃一『音が語る、日本映画の黄金時代 映画録音技師の撮影現場60年』河出書房新社、2022–02。ISBN 9784309291864。