金子孚水
金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日 ‐ 1978年(昭和53年)5月31日[注 1])は、大正時代の浮世絵商、版元。葛飾北斎の研究で知られる[2]。 本名は金子清次[3]。「孚水」との号は、「浮世絵」の「浮」の字の偏と旁を分解したもので、清次が25歳ごろの、画家・小杉未醒による命名とされる[3]。
来歴
編集1897年(明治30年)5月6日、山形県米沢市に七人兄弟の三男として生まれる[3]。父は煙草製造業で、しばしば東京へ行っては、絵双紙や草双紙、錦絵の類を買って帰った[4]。幼少期より絵画に親しみ、少年時代は画家になることを夢見たこともあったという[5]。16歳で上京、兄が勤めていた浮世絵商の 酒井好古堂に「小僧」として入店[5]。ここでの修業時代に浮世絵愛好家の小林文七の知遇を得、教えも受けるようになった[5]。
1924年(大正13年)9月、 東京市本郷区湯島同朋町(2006年現在、文京区湯島3丁目)に「孚水画房」を開店、浮世絵商として独立[6]。以後、東京市下谷区西黒門町(2006年現在、台東区上野1丁目)にも店舗を開設、 高橋弘明、山田馬助を絵師とする新版画を製作、版行していた[6]。また、1932年(昭和7年)からは雑誌『孚水ぶんこ』を発刊していた[7]。しかしながら、1934年(昭和9年)5月におこった贋作事件(春峯庵事件)に関与(逮捕、起訴され、有罪判決)[8][9]、さらには1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦もあり、浮世絵商および版元としての活動は出来なくなった[6]。1943年(昭和18年)3月には浮世絵研究会を発足させる[要出典]。
孚水は1913年(大正2年)頃から、国立の浮世絵美術館創設を提唱、1937年(昭和12年)、独立奔走、議会に働きかけるも、支那事変勃発により、頓挫、第二次世界大戦後の平和な時代になっても計画の進展はみられず、「日本古美術保護協会」を結成しようと試みるも、政府筋の賛同が得られずに終わった[10]。その後、水田三喜男に強く国立浮世絵美術館開設のことを訴えるも、結局、実現できずに終わった[11]。一方で、定期的に浮世絵展を開催するなど、浮世絵の顕彰と保護に尽力した[11]。
晩年は、ソ連、中国での「葛飾北斎」展の開催、長野県小布施町の北斎館開設への尽力のほか、葛飾北斎作品の紹介、再発掘、研究に励んだ[11]。1978年5月31日に肝硬変により台東区の自宅において死去[12]。
著作
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 白崎 1978, p. 174.
- ^ 清水久男 2006, p. 106.
- ^ a b c 青木進三朗 1978, p. 22.
- ^ 白崎 1978, p. 175.
- ^ a b c 青木進三朗 1978, p. 23.
- ^ a b c 清水久男 2006, p. 104.
- ^ “孚水ぶんこ”. 国立国会図書館. 2022年10月29日閲覧。
- ^ 影山幸一 (2008年11月). “喜多川歌麿《夏姿美人図》肉筆浮世絵の粋 -「内藤正人」”. アートスケープ. 大日本印刷. 2022年10月29日閲覧。
- ^ 太田智己 (2016). “1930~40年代における古美術の自然科学的研究の本格化 -背景としての学術支援体制の拡充と研究者の社会的責任の自覚-” (pdf). 科学史研究 (日本科学史学会) 55 (277): 59. doi:10.34336/jhsj.55.277_51. ISSN 2188-7535 2022年10月29日閲覧。.
- ^ 青木進三朗 1978, pp. 23–24.
- ^ a b c 青木進三朗 1978, p. 24.
- ^ “金子孚水 日本美術年鑑所載物故者記事”. 東京文化財研究所. 2022年10月29日閲覧。
参考文献
編集- 青木進三朗「この道ひとすじ浮世絵の道 金子孚水氏を偲ぶ」(pdf)『浮世絵芸術』第58巻、国際浮世絵学会、1978年、22-25頁、doi:10.34542/ukiyoeart.549、ISSN 0041-5979。
- 清水久男 編『こころにしみるなつかしい日本の風景 近代の浮世絵師・高橋松亭の世界』国書刊行会、2006年7月25日。ISBN 4-336-04784-7。
- 白崎英雄「ある北斎狂の一生――肉筆浮世絵に憑かれた金子孚水――」『芸術新潮』第29巻第10号、新潮社、1978年、174-182頁。