守澄法親王

江戸時代の法親王

守澄法親王(しゅちょうほっしんのう、寛永11年閏7月11日1634年9月3日) - 延宝8年5月16日1680年6月12日))は、江戸時代皇族[1]。初代輪王寺宮門跡(日光門跡とも呼ばれる)。東叡山(寛永寺)・日光山輪王寺貫主。天台座主朝廷より二品・一身阿闍梨・一品・護持・牛車・検封阿闍梨などの宣下を受ける。号は本照院。

守澄法親王
守澄法親王像
続柄 後水尾天皇第六皇子

身位 一品・法親王
出生 寛永11年閏7月11日1634年9月3日
死去 延宝8年5月16日1680年6月12日
父親 後水尾天皇
母親 園光子
役職 初代輪王寺宮門跡
天台座主
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経歴

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  • 1634年(寛永11年)閏7月、後水尾天皇の第6皇子として誕生。
  • 1638年(寛永15年) 江戸幕府が対朝廷政策・宗教政策の一環として、朝廷に対して皇子下向の要請を出し、翌年に幕府と朝廷との間に皇子下向の契約が結ばれる。
  • 1644年(寛永21年) 青蓮院で得度(尊敬法親王)
  • 1647年正保4年) 関東に下向し東叡山に入る。
  • 1648年慶安元年) 3回の日光登山を行う。
  • 1649年(慶安2年) 一品宣下のため上洛
  • 1654年承応3年)7月 紅葉山家光廟の安鎮修法を行う。11月、前座主の公海から譲られて東叡山・日光山の貫主となる。
  • 1655年明暦元年)9月 大内裏の安鎮修法のため再度上洛。10月、朝廷より天台座主を宣下される。11月 大内裏安鎮修法を行い、朝廷から日光山に対し「輪王寺」号を与えられる。これより輪王寺宮門跡の始まりとなる。12月、天台座主を辞任。
  • 1656年(明暦2年)2月、幕府により輪王寺宮門跡が比叡山東叡山日光山の三山を管領する長として定められる。
  • 1658年万治元年)4月、徳川秀忠27回忌法会において、守澄法親王の請願により大赦令が出された。
  • 1659年(万治2年)9月、江戸城本丸御殿の安鎮修法を行う。
  • 1664年寛文4年)10月、東叡山宝樹院霊牌所の安鎮修法を行う。
  • 1666年(寛文6年)5月、後水尾院との対面、後陽成後光明院の法会のため上洛。
  • 1673年延宝元年)5月 諱改め(守澄法親王)と、後に第2代輪王寺宮門跡になる天真法親王の得度に立ち会うため上洛。
  • 1677年(延宝5年)1月と翌年5月に東福門院和子の病気の祈祷のため上洛。
  • 1680年(延宝8年)5月、入滅。天真法親王が輪王寺を継ぐ。

脚注

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  1. ^ 守澄入道親王”. コトバンク. 2023年3月12日閲覧。
先代
-
輪王寺宮門跡
初代:1655 - 1680
次代
天真法親王