宮里静湖
沖縄県出身の詩人、作詞家
宮里 静湖(みやざと せいこ、男性、1907年2月22日 - 1985年11月2日[1])は、昭和時代の日本およびアメリカ合衆国(米国)施政県下の沖縄県で活動した詩人、作詞家、小説家、郷土史家。
宮里 静湖 みやざと せいこ | |
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ペンネーム | 宮里 政光 |
誕生 |
宮里 正光 1907年2月22日[1][2][3] 日本 沖縄県島尻郡具志川村(現:久米島町)仲泊 |
死没 | 1985年11月2日(78歳没)[1] |
職業 | 詩人、作詞家、小説家、郷土史家 |
言語 | 琉球語、日本語 |
最終学歴 | 沖縄師範学校 卒業 |
代表作 |
「桑の実」「沖縄県民の歌」 「山原」「望郷」 「青い目、黒い目」「獣人」 |
主な受賞歴 | 「沖縄県民の歌」入選 |
配偶者 | 宮里シゲ[4] |
影響を受けたもの
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本名は宮里 正光(みやざと せいこう)で、小説家としては「宮里 政光」(読みは本名と同じ)のペンネームも使用していた[1]。
経歴
編集1907年(明治40年)、沖縄県島尻郡具志川村(現在の久米島町西部)仲泊で生まれる[1]。沖縄師範学校で宮良長包に師事し[5]、卒業後は師弟で「船路」「桑の実」などの童謡や故郷の久米島に伝わる琉球民謡「阿嘉の鬚水」を原曲とする「荒磯の歌」、久米島小学校校歌等を発表した[6]。このうち「荒磯の歌」は1964年(昭和39年)に東京教育出版社が刊行した音楽の教科書に掲載されている[3]。
尋常小学校教員を退いて上京した後、伊波南哲に見出されて詩誌の編集に携わり1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)頃までは『文学人』や『日本文学者』などの同人として活動した[1]。就職のため渡った満州で応召した後にソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経て解放されナホトカ経由で舞鶴港へ帰国・復員した[7]。
米国施政権下の沖縄では仲里小学校校長、久米島教育事務所長、那覇連合教育区次長に至る。この間、シベリア抑留の体験を基にした「望郷」などの詩や小説「青い目、黒い目」「獣人」などを精力的に発表した[1]。
1972年(昭和47年)の沖縄返還に伴う新県民歌の歌詞募集で応募作が入選し、5月15日の返還当日に「沖縄県民の歌」が制定された[8]。また、郷土史家として『久米島具志川村史』の編纂に携わっている[1]。
主な著作
編集注記のない場合は宮里静湖名義。
作詞
編集詩
編集- 望郷(新沖縄文学)
- 詩集
- 山原 教育の四季(1970年) NCID BA50552589
- 港の歴史(1974年) NCID BA67162115
小説
編集- いずれも宮里政光名義[1]。
郷土史
編集- 以下の編著は本名の宮里正光名義。
- みどり丸遭難誌(みどり丸遭難者救助対策久米島本部、1965年) NCID BA75661074
- 久米島具志川村史(具志川村役場、1976年)[1] NCID BN09889796
参考文献
編集- 沖縄タイムス編『沖縄近代文芸作品集』(沖縄タイムス社『新沖縄文学 別冊'91』、1991年)NCID BA33559672
- 沖縄県姓氏家系大辞典編纂委員会 編著『角川日本姓氏歴史人物大辞典 47 沖縄県』(角川学芸出版、2011年) ISBN 978-4-04-622826-0
- 大山伸子『宮良長包の音楽教育活動に関する研究(6)-作品研究3(昭和篇-(2))-』(沖縄キリスト教短期大学紀要第37集、2009年)
- 大城貞俊『沖縄現代詩の軌跡と挑戦 〜 「言葉」の可能性を求めて』(琉球大学教育学部紀要第76集、2010年)