山中温泉
山中温泉(やまなかおんせん)は、石川県加賀市の旧山中町にある温泉。ならびに加賀市の町名の一つ。古くから歴史のある温泉の地であり、加賀温泉郷の一角を占める。
山中温泉 | |
---|---|
菊の湯(左)と山中座(右) | |
温泉情報 | |
所在地 | 石川県加賀市 |
交通 |
空路 - 小松空港 鉄道 - JR西日本北陸本線:加賀温泉駅 車 - 北陸自動車道:加賀IC |
泉質 |
硫酸塩泉 (ナトリウム・カルシウム) |
泉温(摂氏) | 48.3 °C |
湧出量 | 773 リットル/分 |
pH | 8.57 |
液性の分類 | 弱アルカリ性 |
浸透圧の分類 | 低張性 |
宿泊施設数 | 26(旅館20、ホテル1、その他5) |
総収容人員数 | 5,713 人/日 |
年間浴客数 | 51.4万 |
統計年 | 2005年(平成17年) |
外部リンク | 山中温泉 |
概要
編集山中温泉街は山に囲まれた街であり、また至近の自然豊かな山、谷、川など山間部の田舎の情緒も味わえる。温泉街は大聖寺川の渓谷沿いなどに旅館が立ち並ぶ。
文字通り「山の中」にあり、一帯は鶴仙渓という景勝地である。街のシンボルであるこおろぎ橋や草月流家元がデザインしたユニークな形のあやとりはしがあり、日帰り入浴施設もある。山中漆器の産地でもあり、土産物屋が多い。民謡『山中節』は、江戸時代の元禄期から歌い継がれているとされる[1]。
名鉄ホテルグループが経営していたが撤退、廃業した山中グランドホテルを2005年に湯快リゾートが買収。これを契機に廃業等の宿泊施設を買収して再生させる格安ホテルチェーンの進出が著しい。
共同浴場
編集共同浴場は総湯「菊の湯」が存在し、その下に源泉が存在する。菊の湯(男子用)のプール状の大きな湯船の壁には大きく、『山中温泉縁起絵巻』の一部を九谷焼タイルで模写している(原本は山中温泉 医王寺所有)[2]。菊の湯の菊は、東日本巡歴で当地に滞在した松尾芭蕉が記した『奥の細道』の句に因んでいる。総湯という呼称は全国広く使われたが今は北陸地方だけに残る[3]。
山中座と広場
編集共同浴場、菊の湯は男女用それぞれ別棟であり、その間の大広場にはからくり時計、松尾芭蕉が曾良との此処での別れに際し詠んだ句にちなみ「笠の露」[4]と名付けた足湯、各種の催し物を開く市民ホール山中座などがある。山中座は、豪華な蒔絵の格天井やロビーに山中漆器の粋を配し、外観が同じ和風の二つの菊の湯とともに三つ棟と大広場の見事な調和がある。山中座の外壁は温泉縁起などの詳細が常設され広場は季節を彩る巨大な催事物が置かれることもある。山中座の初代名誉座長は森光子および佐々木守。
ゆげ街道
編集共同浴場からこおろぎ橋に至る国道364号の途中400mは道路幅6mから倍以上へと拡幅、全店舗を再構築と大改修を行い、温泉情緒ある街並みに変貌し「ゆげ街道」と呼んでいる。商店街と温泉客との融合活性化を図り景観も優れ、2003年(平成15年)完成後、いしかわ景観大賞、2004年(平成16年)10月都市景観大賞国土交通大臣表彰される。1931年(昭和6年)の町の大火でも奇跡的に現存する寺から南部は延焼を免れ、道路幅6mと狭かった。2009年(平成21年)3月に「新・がんばる商店街77選」に選ばれた。
道の駅 山中温泉ゆけむり健康村
編集栢野大杉
編集行事
編集- 5月 山中漆器まつり ゴールデンウィーク期間中に開催
- 5月4日、5日 山中温泉 医王寺 甘茶祭り(山中温泉最古のお祭り)
- 6月4日、5日 菖蒲湯祭り
- 6月下旬 古九谷修古祭
- 6月 OSJ山中温泉トレイルレース
- 7月上旬 山中温泉七夕まつり
- 7月25日 - 8月24日 ふるさと山中夏まつり
- 9月 山中節全国コンクール
- 9月 山中節道中流し
- 湯女みこし、おわんみこし、若衆みこし、大獅子みこし、山中節輪おどりなど
泉質
編集- 硫酸塩泉(旧泉質名 : 含石膏芒硝泉、新泉質名 : カルシウム・ナトリウム - 硫酸塩泉)
歴史
編集奈良時代に行基が北陸行脚の際に薬師如来の導きによって発見したという開湯伝説が山中温泉 医王寺により伝えられている[7]。その後、兵乱で荒廃していたが、文治年間(1185年-1190年)に長谷部信連が傷を負った一羽の白鷺が脚の傷を湯で癒しているのを見て再興したと言われる[7][8]。これらの開湯伝説は後に名古屋駅・米原駅発着の北陸本線エル特急や北陸鉄道6010系電車の愛称「しらさぎ」の由来の一つともなっている。室町時代には蓮如が湯治のため滞在したこともある。山代、山中、片山津と言われ、加賀国の代表的な温泉地である。
天正8年(1580年)柴田勝家の軍勢が加賀一向一揆を攻めた折り、当時「山中湯」と呼ばれ、自軍に禁止令を出し「乱暴狼藉や陣取り(内湯として奪い合う)」を禁止したとされる[9]。
奥の細道の松尾芭蕉と河合曾良は驚異の速さで行程を歩いたが、終点の岐阜大垣を目前に安堵したか、温泉嫌いであった芭蕉もここ山中温泉の名湯が格別気に入り八泊した[4]。その後、芭蕉は那谷寺を参詣し小松へ戻り[4]、腹を病んでいた曾良を先に帰し大聖寺へと別れた。重陽の節句(菊の節句)に因む名湯を称えた句を残す。
1903年(明治36年)初代新家熊吉(あらや くまきち)は高価な輸入自転車に対して安価な普及を願い山中漆器の工程からヒントを得て初めて木製リムを製造し、日露戦争時で需要も旺盛となり、1915年(大正4年)に英国製を手本に国産初の金属製リムの製造に成功。1946年(昭和21年)に「ツバメ號」自転車を生産し、その後リムと共にチェーンの製造も手がけ、これらは加賀市の機械産業の一翼となっている[10][11][12]。上原町国道364号脇の丘に翁の銅像があり、傍にシダレザクラもある。二代目新家熊吉は初代加賀市長となった。
昭和初期まで各温泉宿には内湯が無く「湯ざや」と呼ばれる共同浴場を利用していた。
1938年(昭和13年)海軍は佐世保、呉、横須賀の鎮守府管理の下、既存の三つの温泉病院(他に三病院、青森県むつ市大湊湾、韓国・鎮海警備府、台湾・馬公警備府に加え、舞鶴鎮守府の管理で日本海側にも一つ温泉病院の設立を決定した。各地で誘致合戦が展開され、戦況から毒ガスの使用が予想され、毒ガス傷病兵に効能ある泉質から山中温泉に土地の無償提供もあり、1941年(昭和16年)10月に山中海軍病院が開設された[13]。1945年(昭和20年)12月に国立山中病院、2003年(平成15年)3月に山中温泉医療センターとなった。加賀市としての合併後は市の施設とし運用され、管理運営は地域医療振興協会に委ねている。また、1946年(昭和21年)に付属看護婦養成所を併設し、1953年(昭和28年)に高等看護学院を開設。1975年(昭和50年)に付属看護学校と改称。2004年(平成16年)4月、日本全国の国立病院が国立病院機構となったのを機に全国50余校とともに廃校となった。
1948年(昭和23年)6月28日、福井地震が発生。共同浴場に入浴中の数十名が一斉に逃げ出した際の混乱で1人が重傷、50余人が軽傷を負った[14]。
1959年(昭和34年)、遊園地、スキー場、ロープウェイを含むレジャー施設「山中水無山展望台」が開業(1978年(昭和53年)に営業を休止した)。
2009年(平成21年)から温泉街の料飲業協同組合は洋楽の名盤と呼ばれたレコードのディスクジャケットの写真などをパロディとした創作画像を盛り込んだ「グルメマップ」を温泉客に配ったことが新聞やテレビで取り上げられ話題となった。パロディ画像の一例としてビートルズの4人がアビイ・ロードの横断歩道を渡るのを模して、山中温泉ゆかりの4人、道場六三郎(当地出身)、『奥の細道』の松尾芭蕉と河合曾良、九谷焼始祖の後藤才次郎が「ゆげ街道」を横切るものがある[15]。
2013年(平成25年)4月27日、「森光子一座記念館」開館。旧山中町長の田中實(たなか みのる)が2000年頃、森光子が「山中節は民謡の中で一番好き」とラジオ番組で語ったのを偶然聞いて感動し、山中座の名誉座長になってほしいと何度も懇願し、森が就任。2015年に記念館建設の話もまとまっていたが。森の死去により前倒しで開館した[16]。その後、遺品の借用期間が過ぎたことや県道の拡張計画などの理由により、2015年11月に休館[17]。
アクセス
編集- 公共交通機関
- JR加賀温泉駅から北鉄加賀バスの路線バスまたはまちづくり加賀の観光周遊バス「キャンバス」で30分。
- また加賀市観光交流機構が企画し京福バスが運行する永平寺直通バス「永平寺おでかけ号」(予約優先)もある。
- かつては北陸鉄道加南線が粟津駅・動橋駅・大聖寺駅から通じていたが、1971年(昭和46年)に廃止された。
- 自動車
地名としての山中温泉
編集古来、山中温泉街であった江沼郡山中町と西谷村、東谷奥村と河南村の3村が1955年(昭和30年)4月、新設合併により新たに山中町となる。2005年(平成17年)10月に加賀市と山中町が合併(新設合併)して加賀市となったのを機に、山中町の区域を地域自治区「山中温泉」とした(2015年(平成27年)9月30日まで)が、旧村落部は一部を除き必ずしも温泉街ではない。
エピソード
編集「山中会談」
編集1963年6月に元総理大臣の吉田茂が佐藤栄作、三木武夫を伴い、山中温泉一の高級旅館だった「よしのや依緑園別荘」に逗留。池田勇人の後継を佐藤とする、という秘密会議を行ったとされている[18][19]。
ゆかりの人物
編集- 出身者
- 居住者
脚注
編集注釈
編集- ^ 芭蕉は山中の宿、泉屋の14歳の若主人に「桃妖」の俳号を与え、「温泉頌山中の句(おんせんのしょうやまなかのく)」に「やまなかや 菊はたおらし ゆのにほひ」の句と「扶桑三の名湯」と頌して(褒めて)山中、草津、有馬を挙げ、染筆して残している。
- 石川県立美術館所蔵品 温泉頌山中の句 温泉頌山中の句:松尾芭蕉 at the Wayback Machine (archived 2008-02-13)
出典
編集- ^ 【旅に旅して】山中温泉(石川県加賀市)『読売新聞』日曜朝刊別刷り「よみほっと」2022年7月17日
- ^ 男子浴場内の壁面の九谷焼タイルで模写した「山中温泉縁起絵巻」
- ^ デジタル大辞泉 「総湯」の意味 デジタル大辞泉 「総湯」の意味 そう‐ゆ【総湯】[初出の実例]「浴客は凡べて戸外なる総湯へ赴なり」(出典:風俗画報‐二四二号(1901)地理門)と記され、少なくとも1901年 (明治34年) 頃までには広く使われた呼称とされる。
- 山中温泉総湯「菊の湯」石川県観光公式サイト ほっと石川旅ねっと / サイト年月日: 2 Mar 2024 at the Wayback Machine (archived 2024-03-02)
- ^ a b c “【金沢~山中温泉】<塚も動け我泣声は秋の風/今日よりや書付消さん笠の露>”. 福島民友. (2020年3月9日). オリジナルの2020年6月21日時点におけるアーカイブ。 2022年8月22日閲覧。
- ^ 論文「天然温泉における溶存水素(H2)」の解説 日本温泉総合研究所(2015年4月6日)
- ^ 俵山温泉、山中温泉に高濃度の溶存水素は存在しない 日本温泉総合研究所(2015年11月30日)
- ^ a b 新市における温泉のあり方に関する報告書<概要版>加賀市・山中町合併協議会温泉研究部会 総務省
- ^ 6/24ページ 歴史沿革(1)加賀山中温泉地の由来, 山中温泉 at the Wayback Machine (archived 2022-04-19)
- ^ 読売新聞夕刊2024年7月9日4版5面「日本史アップデート 特集題:温泉と日本人」日本温泉地域学会長の石川理夫が収集の史料から各地で温泉を対象とした禁制が多かったとの記述に依る
- ^ 「漆器と自転車の意外な関係 - 初代・新家熊吉のイノベーション -」第37巻、北陸先端科学技術大学院大学 地域・イノベーション研究センター、2011年、hdl:10119/9587、2023年10月30日閲覧。
- ^ 新家工業の沿革 at the Wayback Machine (archived 2010-12-23)
- ^ 小林一也『伝統工芸から近代企業への事業革新 : 新家工業・大同工業創業者初代新家熊吉のケース』JAIST Press〈文部科学省・科学技術振興調整費・地域再生人材創出拠点形成プログラム石川伝統工芸イノベータ養成ユニット・ケースブックシリーズ 4〉、2011年。hdl:10119/10341。ISBN 978-4-903092-29-4 。2024年8月8日閲覧。
- ^ 地下壕探索 山中海軍病院 at the Wayback Machine (archived 2024-06-04)
- ^ 「大聖寺も相当な被害」『朝日新聞』昭和23年6月29日1面
- ^ 『読売新聞』2011年(平成23年)1月9日関東版13版30面「湯煙誘うカム・トゥゲザー、山中温泉マップ好評」2011年(平成23年)1月9日 01時47分Yomiuri Online配信
- ^ 『読売新聞』2013年4月28日13S版2面
- ^ “森光子記念館休館へ 山中温泉、遺品借用期間が満了”. 北國新聞 (2015年11月11日). 2015年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。
- ^ “「山中会談」の洋間を公開 旧依緑園別荘”. 北國新聞 (2016年11月23日). 2016年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。
- ^ “昭和天皇や吉田茂元首相も宿泊 「旧よしのや依緑園別荘」公開”. 中日新聞 (2016年11月23日). 2016年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。