島津吉貴
江戸時代中期の島津氏宗家21代。薩摩鹿児島藩4代藩主。正四位下左近衛中将、薩摩守。子に忠五郎(夭折)
島津 吉貴(しまづ よしたか)は、江戸時代前期から中期の大名。島津氏21代当主。薩摩藩の第4代藩主。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝3年9月17日(1675年11月4日) |
死没 | 延享4年10月10日(1747年11月12日) |
改名 | 菊三郎(幼名)→忠竹(初名)→吉貴 |
神号 | 天浄偉霊彦命 |
戒名 | 浄国院殿鑑阿天清道煕大居士 |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市池之上町の島津家墓地 |
官位 | 正四位下左近衛中将、薩摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 薩摩鹿児島藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 |
父:島津綱貴 母:二階堂宣行の娘・お重の方 |
兄弟 | 吉貴、菊次郎、久儔、忠直、久方、禰寝清純、久東、鍋保丸、久福、亀姫、栄、島津久智室、町田久儔室、桂久音室 |
妻 |
正室:松平定重の娘・福姫 側室:名越恒渡の妹・須磨、郷田兼近の娘・お幾 |
子 | 継豊、忠五郎、貴儔、忠紀、久亮、貴澄、忠卿、忠温、満君、島津久章室、島津久定室、伊勢貞矩室 |
生涯
編集延宝3年(1675年)9月に島津綱貴の子として鹿児島城で誕生。ただし、父・綱貴が再婚して間もない頃[注釈 1]の誕生だったためか後室の鶴姫(吉良義央長女、上杉綱憲養女)や世間を憚り、曾祖父・島津光久の子供達と共に育てられる[1]。元禄2年(1689年)、5代将軍・徳川綱吉から、「松平」の名字と偏諱(「吉」の一字)を与えられ、初名の忠竹(ただたけ)から吉貴(「松平修理大夫吉貴」、「貴」は父・綱貴の偏諱)に改名[2]。宝永元年(1704年)、父の死により家督を継ぐ。宝永7年(1710年)、6代将軍・徳川家宣に対して琉球慶賀使を聘礼させた。享保6年(1721年)、病気により痞が酷く、目まいもたびたび起こり、登城すら困難であるとして[3]、長男の継豊に家督を譲って隠居する。後に継豊が8代将軍・徳川吉宗の養女・竹姫と再婚させられそうになったときには反対派の筆頭であったとも言われる[注釈 2]。延享4年(1747年)10月、73歳で没した。
吉貴はそれまであった加治木島津家、垂水島津家に加え自分の息子達に越前家(家祖は四男忠紀)、今和泉島津家(家祖は七男忠卿)と言う分家を作らせ、この4分家のみが本家に後継者がいない場合に藩主を出せる家系とした。徳川将軍家の御三家や他藩の「支藩」にも似た体制だが、他藩ではこのような有力分家は「支藩」にするのに対し、薩摩藩では「私領主」の扱いで対外的には家臣と変わらなかったのは大きな特徴である。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 参照「薩藩旧記雑録 追録」
- ^ 参照「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』村川浩平著 ISBN 4-8231-0528-1
- ^ 芳即正『島津重豪』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1980年)p.5
- ^ 参照『徳川将軍家の結婚』山本博文著 ISBN 978-4166604807