崔 立(さい りつ、? - 1234年7月26日[1])は、政治家。景州将陵県の人。しかし、彼の経歴は一切不明である。一説では寒門(貧家)出身で、無頼だったと伝わる。

略歴

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人物・生涯

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若いころは寺院に籍を置き、太鼓を鳴らして、生計を立てていたようである。

金史』によると、後に金に仕官し都統、提控使を経て、領太原府事を歴任した。1232年天興元年)に、スブタイ率いるモンゴル軍が開封府に迫って来ると、平安都尉を兼ねて、その総指揮者となった。だが、哀宗が開封府を放棄して帰徳府に逃亡した。そのため、金の宗室である参知政事完顔奴申と枢密副使の完顔斜捻阿不らが臨時的に開封府の留守となり、彼等は実力者の崔立を西面元帥に昇格させた。だが翌年の正月早々、崔立はクーデターを起こし、上司の完顔奴申・完顔斜捻阿不を殺害し、彼は実権を把握した。そこで、彼は20年間も監禁されていた衛紹王の皇太子であった梁王従恪を先帝であった宣宗未亡人の李氏を通じて擁立し、従恪を再び皇太子監国とし、彼自身は太師・兵馬都元帥・尚書令・鄭王と称した。

その繁栄と末路

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だが、崔立は人格的に大欠陥があり、傲慢で人に媚びられるのが大好きな低俗物な人物だったようである。そして彼は金の名士であった元好問と学者でもあった劉祁らを左右員外郎に任じて、自分の功績を称える「功徳碑」を作成するように命じたという。また彼は自分の政策を猛反対する大臣を投獄して処刑したという。翌年に突然、彼は豹変してモンゴルのスブタイらに降伏を請い、宣宗未亡人の李氏・哀宗皇后の徒単氏・梁王従恪・荊王盤都(守純、宣宗の子で従恪の従子)らをモンゴルの軍営に護送して引き渡した(男子は全て処刑され、女性は奴隷になったという)。1234年夏6月、南宋の名将の孟珙が開封に攻めて来ると、崔立は自分に怨みを持っている武将の李伯淵らに殺害されたのである。直後に、李伯淵らは崔立の首級を持参してそのまま孟珙に降服した(その半年前には哀宗は淮西の蔡州城自決したために金は滅亡していた)。

崔立の評判

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なお、以前から崔立に対して恨みの骨髄を刻んでいた元好問は、崔立の惨殺の報を聞いて、

逆豎(ぎゃくじゅ)、終(つい)に当(まさ)に鱠縷(かいる)と分(さ)かるべし、刀を揮(ふる)い今、三軍を快くせしむるを得たり

と珍しく大興奮して、謳い出していたといわれる。

脚注

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  1. ^ 脫脫 (中国語). 《金史·卷一百一十五·列傳第五十三·崔立》. "三年六月甲午,傳近境有宋軍,伯淵等陽與立謀備禦之策。翌日晚,伯淵等燒外封丘門以警動立。是夜,立殊不安,一夕百臥起。比明,伯淵等身來約立視火,立從苑秀、折希顏數騎往,諭京城民十五以上、七十以下男子皆詣太廟街點集。既還,行及梳行街,伯淵欲送立還二王府,立辭數四,伯淵必欲親送,立不疑,倉卒中就馬上抱立。立顧曰:「汝欲殺我耶?」伯淵曰:「殺汝何傷。」即出匕首橫刺之,洞而中其手之抱立處,再刺之,立墜馬死。伏兵起,元帥黃摑三合殺苑秀。折希顏後至不知,見立墜馬,謂與人鬥,欲前解之,隨為軍士所斫,被創走梁門外,追斬之。伯淵繫立屍馬尾,至內前號于眾曰:「立殺害劫奪,烝淫暴虐,大逆不道,古今無有,當殺之不?」萬口齊應曰:「寸斬之未稱也。」乃梟立首,望承天門祭哀宗。伯淵以下軍民皆慟,或剖其心生啖之。以三尸挂闕前槐樹上,樹忽拔,人謂樹有靈,亦厭其為所汙。已而有告立匿宮中珍玩,遂籍其家,以其妻王花兒賜丞相鎮海帳下士。"