庭田重保
正二位、権大納言、蟄居、武家伝奏、按察使
庭田 重保(にわた しげやす、1525年-1595年)は、室町時代末期から安土桃山時代にかけての公卿。
時代 | 室町時代末期-安土桃山時代 |
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生誕 | 大永5年(1525年) |
死没 | 文禄4年(1595年) |
別名 | (法名)良祐 |
官位 | 正二位、権大納言、蔵人頭、頭中将、参議 |
氏族 | 庭田家 |
父母 | 父:庭田重親 母:今出川季孝の娘 |
妻 | 広橋兼秀の娘 |
子 | 重具、正親町季秀、中御門資胤 |
経歴
編集享禄2年(1529年)叙爵。天文3年(1534年)侍従。同16年(1547年)に蔵人頭。頭中将を経て、弘治元年(1555年)参議。永禄元年(1558年)権中納言。[1] 1573年、朝廷が足利義昭と織田信長の争いを調停すべく、勅使として二条晴良、三条実澄と共に織田勢の本陣である知恩院に赴き、信長と対面する[2]。天正3年(1575年)権大納言,同4年(1576年)正二位に任ぜられる。[1]
『重保朝臣記』と称される天文17年(1548年)の正月の自筆記が残っている。当時、重保は24歳、頭中将。和歌も詠み、正親町天皇の宮廷で天正8年(1580年)ごろ催行されたとみられる『天正内裏歌合』や、同20年(1592年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の歌会などをはじめ、宮中の歌会によく加わっていたことが知られる。