後藤宗印
後藤 宗印(ごとう そういん、天文14年(1545年)ごろ - 寛永4年11月24日(1627年12月31日))は長崎の町年寄を務めた人物[1][2][3][4][5]。キリシタンで朱印船貿易家でもあった。
佐賀・武雄の後藤貴明の一族で[6]、諱は貞之。当初は惣太郎という名で、後に庄左衛門と称する[2]。宗印と号し、洗礼名は登明(Thome)といった[1][2][7][8]。元亀2年(1571年)、長崎に移住し、町人達の指導的な役割を担う頭人(とうにん)となる。文禄元年(1592年)、長崎代官寺沢広高により、頭人は町年寄と改称され、後藤宗印は引き続き町の統治に携わる[1][4]。
町年寄を務めるかたわら、ブルネイやシャム行きの朱印状を下付され、朱印船2隻を渡航させて海外貿易に従事した[1][2][9][10]。
慶長5年(1600年)からキリシタン信仰手引書を金属活字の国字本で出版[2]。同年3月上旬に『おらしょの飜訳』、同年6月上旬に『どちりな・きりしたん』、同16年(1611年)5月上旬に『ひですの経』を刊行[1][2][11][12]。その社会的地位と財産でイエズス会を援助し、キリスト教徒の信心会「コンフラリア・デ・ミゼリコルディア(慈悲の信心会)」に加盟し慈善事業にも従事した[1][2][13]。元和7年(1621年)3月26日付の長崎の教徒からローマ教皇に宛てた奉答文にも署名した[2]。
寛永3年(1626年)6月、長崎住民に対する棄教命令が出され、長崎奉行の水野守信により町民の棄教が進められた際には、これを拒んで長崎の町を出た。宗印と同じ町年寄の町田宗賀ジョアンも信仰を棄てず、同じく長崎の町を去った[14][15][16]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g 「後藤宗印」『長崎県大百科事典』長崎新聞社、330頁
- ^ a b c d e f g h i j 「後藤宗印」『国史大辞典』4巻 吉川弘文館、915頁
- ^ 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』講談社選書メチエ、36-37頁
- ^ a b 『長崎県の歴史』 山川出版社、146-147頁
- ^ 原田博二著『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、113-114頁
- ^ 周防山口、あるいは京都出身とも言われる。
- ^ 外山幹夫『長崎 歴史の旅』朝日新聞社、120頁
- ^ トメ、またはトマス、トーマスと読む。
- ^ 『長崎県の歴史』山川出版社、148-150頁
- ^ 慶長11年(1606年)6月12日付でブルネイの、同12年12月24日にシャムへ渡航するための朱印状を下された。
- ^ 『国史大辞典』4巻 吉川弘文館 「キリシタン版」 (同書437頁)。
- ^ 印刷所は長崎の酒屋町に置かれた。
- ^ 「ミゼリコルディア跡」『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』平凡社、130頁
- ^ 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』講談社選書メチエ、49頁
- ^ 『長崎県の歴史』山川出版社、174頁
- ^ 五野井隆史著「長崎住民に対する迫害」『日本キリスト教史』吉川弘文館、215頁
- ^ 片桐一男著『出島 異文化交流の舞台』集英社新書、28-31頁
参考文献
編集- 赤瀬浩著『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ ISBN 4-06-258336-4
- 片桐一男著『出島 異文化交流の舞台』 集英社新書 ISBN 4-08-720058-2
- 五野井隆史著『日本キリスト教史』 吉川弘文館 ISBN 4-642-07287-X
- 外山幹夫著『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』 中公新書 ISBN 4-12-100905-3
- 外山幹夫著『長崎 歴史の旅』 朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6
- 原田博二著『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』 河出書房新社 ISBN 4-309-72612-7
- 『国史大辞典』第4巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00504-3
- 『国史大辞典』第5巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00505-0
- 『国史大辞典』第10巻 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-00510-4
- 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社
- 『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社
- 『長崎県の歴史』 山川出版社 ISBN 4-634-32420-2