徳大寺実能

平安時代後期の公卿 (1096–1157)

徳大寺 実能(とくだいじ さねよし)は、平安時代後期の公卿権大納言藤原公実の五男。徳大寺家を興す前は、藤原実能(ふじわら の さねよし)と称していた。官位従一位左大臣徳大寺家の祖。待賢門院の同母兄。久安3年(1147年)徳大寺を建立し、徳大寺左大臣と称された。

 
徳大寺 実能
徳大寺実能(天子摂関御影より)
時代 平安時代後期
生誕 永長元年(1096年
死没 保元2年9月2日1157年10月6日
改名 藤原実能→徳大寺実能→真理(法名)
別名 徳大寺左大臣、大炊御門左大臣
官位 従一位左大臣
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原公実、母:藤原光子藤原隆方の娘)
兄弟 藤原実隆三条実行藤原実兼藤原経実室、覚源、藤原通季仁実実能、実子、公子、藤原経実室、源有仁室、璋子藤原季成、済実、藤原家政
藤原顕隆の娘、藤原宗忠の娘、
廊御方(藤原通季の娘)
幸子公能公親公保、能慶、公雲、円実、公全、公性、公重、春日局
養子:育子
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三条烏丸御所跡・徳大寺実能が鳥羽法皇に献じ御所となった、京都市中京区三条通烏丸西入ル南側

経歴

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長治元年(1104年)に従五位下に叙せられる。元永元年(1118年)、璋子が鳥羽天皇の中宮になると中宮権亮天治元年(1124年)璋子が院号宣下を受けると待賢門院別当になる。璋子の兄であることから重用され、保安3年(1122年)に権中納言に任じられた後は、左兵衛督右衛門督検非違使別当と累進。長承2年(1133年)には長女・幸子(22歳)を藤原頼長(14歳)と結婚させることで、摂関家と関係を強めた。保延2年(1136年)に正二位権大納言となるが、永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位と康治元年(1142年)の待賢門院出家により、閑院流は低迷期に入る。

閑院流の中心は異母兄の三条実行だった。頼長の支援を受けた実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席を作り、久安6年(1150年)に内大臣となった。久寿2年(1155年)に幸子が逝去すると頼長から離れて美福門院に接近し、皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の東宮傅(とうぐうのふ)になるなど変わり身の早さを見せる。保元元年(1156年)9月、左大臣となる。保元2年(1157年)正月に従一位に叙せられるが、7月に出家して法名を真理と称した。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。

歌人として有名で、かつての家人・西行と親交が深かった。

系譜

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脚注

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  1. ^ 藤原北家勧修寺流出身
  2. ^ 公全・公性の名は『尊卑分脈』に記載されているが、『徳大寺家譜』には公全・公性の名はなく、代わりに公重の名が記載されている。
  3. ^ 尊卑分脈』などでは実父が実能で、養父が忠通とする説もある。詳細は藤原育子の項を参照。母は源俊子源顕俊女)。