恭仁京東北道(くにきょうとうほくどう)とは、恭仁京から紫香楽宮までをつないだ古代の官道である。続日本紀の「天平14年(742年)2月5日条」には、「この日始めて恭仁京東北道を開く。近江国甲賀郡に通す」という記述がある。「天平14年8月27日条」には、「紫香楽宮に行幸す。即日、車駕、紫香楽宮に至る」と記されて、聖武天皇が紫香楽宮に行幸したことがわかる。以後、2回目から4回目の紫香楽宮への行幸をへて、745年(天平17年)1月には紫香楽宮が都となる。しかし同年5月には、都が平城京に戻った。

恭仁京東北道のルート

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ルートについては諸説あり定まっていない。 その中で以下の集落を通るルートが、恭仁京から紫香楽宮を結ぶ比較的勾配が少なく直線的なルートとして紹介されている。

口畑ー奥畑ー白栖ー前ー中ー原山ー湯船ー朝宮ー中野ー長野ー勅使ー宇田出ー久保出ー中牧ー黄瀬ー宮町[1]

脚注

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  1. ^ 足利健亮 1997, pp. 46–50.

参考文献

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  • 乾幸次『和束町史 第一巻』(初版)和束町、1995年3月31日。 
  • 乾幸次『萬葉集に詠まれた南山城の古代景観』(初版)古今書院、2002年11月1日。ISBN 4-7722-1458-5 
  • 櫛木謙周『恭仁京東北道の歴史的意義』 第9集 和束地域の歴史と文化遺産(初版)、京都府立大学、2015年3月30日、41-46頁。 
  • 足利健亮 著、「天平の都 紫香楽」刊行委員会 編『「紫香楽宮に来るには、どんな道を通ったのですか?」『天平の都 紫香楽―その実像を求めて』』(初版)滋賀県甲賀郡信楽町、1997年9月。