斡啜
斡啜(オジュ、生年不詳 - 皇統8年(1148年))は、金の皇族。女真名は兀朮(ウジュ)・烏珠(ウジュ)とも[1]。漢名は宗弼[1]。初代皇帝の太祖阿骨打(アクダ)の四男。
斡啜(オジュ) | |
---|---|
続柄 | 太祖阿骨打四男 |
全名 | 完顔宗弼 |
称号 | 忠烈王、梁王 |
出生 |
不詳 |
死去 |
皇統8年(1148年) |
配偶者 | 側室:趙円珠 |
子女 | 孛迭、寿康公主、習撚ほか |
父親 | 太祖阿骨打 |
母親 | 元妃 烏古論氏 |
生涯
編集元妃烏古論氏の子として生まれた。1125年に叔父の太宗呉乞買(ウキマイ)に従い、従兄の粘没喝(ネメガ、宗翰)と共に北宋の都の開封に攻め寄せて、徽宗・欽宗父子をはじめとして、北宋の皇族・大臣らを捕虜として北方に連行した。
やがて、江南に逃れた康王趙構(高宗)が南宋を建国した。オジュは叔父の太宗の厳命で、長江を越えて追撃するが、深入りしすぎて引き揚げに苦労し、鎮江と揚州のあいだで宋将の韓世忠らの軍勢に敗退した[1][注釈 1]。天会8年(1130年)、訛里朶(宗輔)の陝西平定戦に従軍するも、張浚の前に大敗する[注釈 2]。天会9年(1131年)、再び陝西攻略の作戦を起こし、これを攻略。天会15年(1137年)、甥の3代熙宗ホラにより、今までの功績で瀋王・右副元帥に封じられた。これによって、彼は金の軍事権を全面的に握った。天眷元年(1138年)、再び南宋に遠征し、岳飛・韓世忠等と接敵しそうになるが、酷暑により両者軍を退いた。その後も、引き続き都元帥・太保・領行台尚書省を歴任した。やがて政治家としての能力を認められて、尚書・左丞相・侍中に昇進し、異母兄の斡本(オベン、宗幹)と共に金の頂点として君臨した。天眷3年(1140年)、再度南宋に遠征し、今度は河南南部を奪回した。
宗室
編集妻妾
編集子女
編集- 韓王 孛迭(亨)
- 寿康公主 蒲剌
- 習撚
その他、多数
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 内藤湖南『中国近世史』岩波書店〈岩波文庫〉、2015年7月。ISBN 978-4-00-381171-9。