末森城 (尾張国)

愛知県名古屋市千種区にあった城

末森城(すえもりじょう)は、愛知県名古屋市千種区城山町尾張国愛知郡鳴海荘末森村)にあった室町時代末期の日本の城。縁起の良い名ということで末盛城とも書かれた。

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末森城
愛知県
城址碑
城址碑
別名 末盛城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 織田信秀
築城年 天文17年(1548年
主な城主 織田氏
廃城年 不明
遺構 空堀、石碑
指定文化財 未指定
位置 北緯35度10分3秒 東経136度57分35秒 / 北緯35.16750度 東経136.95972度 / 35.16750; 136.95972 (末森城)座標: 北緯35度10分3秒 東経136度57分35秒 / 北緯35.16750度 東経136.95972度 / 35.16750; 136.95972 (末森城)
地図
末森城の位置(愛知県内)
末森城
末森城
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空堀
空堀
末森城址碑は城山八幡宮の境内にある

歴史

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天文17年(1548年)、東山丘陵の末端に織田信秀が築城した[1]三河国松平氏駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである[2]。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした[3][4]

天文21年(1552年)に信秀は死去した[5]。信秀の居城である末森城を譲られたのは、織田信勝(達成、信成、あるいは信行とも。織田信長の実弟)であった[6]

弘治2年(1556年)、信勝は林秀貞柴田勝家などとともに信長に叛旗を翻すが、稲生の戦いで敗れる[7]。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放った[8]。このとき、末森城内にいた母・土田御前の介入で、信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている[8]

しかし永禄元年(1558年[注釈 1]、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清須城で謀殺された[7][8]。これにより末森城は廃城となったとされるが、後に、小牧・長久手の戦いに際して、織田信雄が再び末森城を使用したという(後述)。

なお天文22年(1553年)、城主の信勝が加賀白山比咩神社から分霊を迎え城中に白山社を祭ったものが廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治になって近隣の神社と合祀されて城山八幡宮となった[9][10]。また、城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は名古屋市千種区四谷通にある桃巌寺内で信勝とともに供養されている。

構造

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末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43メートルの丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城された平山城である。地形を利用して斜面の中腹に幅10-16メートルの空堀を備えていた[11][12]。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。

現在でも深さ7メートルほどの空堀跡など、遺構がよく残っている。馬出総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は1584年頃、当時尾張を支配していた織田信雄小牧・長久手の戦いに備えて整備したものと考えられている[13]

現状

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本丸跡地は城山八幡宮の神域、二の丸跡地には愛知県が建設した旧・昭和塾堂が建っているが、後に城山八幡宮に払い下げられ、建物は愛知学院大学に貸与されていたが、2017年4月30日に賃貸借契約は終了している。また城山八幡宮内に末森城址の石碑が建っており、城の名は末盛通として残った。

交通

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脚注

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注釈

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  1. ^ 信行暗殺は、弘治3年(1557年)の出来事ではなく、永禄元年(1558年)の出来事であるのが正しいと考えられている[7]。詳細は織田信行#最期の注釈を参照。

出典

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  1. ^ 日本歴史地名大系23愛知県の地名 平凡社 1981年 p93
  2. ^ 日本城郭大系 第9巻 新人物往来社 1980年 p291
  3. ^ 柴裕之 2011, p. 27.
  4. ^ 下村信博 2011a, p. 230.
  5. ^ 柴裕之 2011, p. 30.
  6. ^ 下村信博 2011b, pp. 244–245.
  7. ^ a b c 谷口 2010, pp. 111–112.
  8. ^ a b c 下村信博 2011b, pp. 254–255.
  9. ^ 名古屋区史シリーズ「千種区の歴史」 千種区婦人郷土史研究会著 愛知県郷土資料研究会発行 1981年昭和56年) p120-121
  10. ^ 愛知県神社名鑑 愛知県神社庁編 1992年平成4年)p99
  11. ^ 尾張の古城 笹山忠著 2008年(平成20年)自費出版 p1
  12. ^ 東西約43メートル、南北46メートルの本丸(東丸)と、東西約50メートル、南北43メートルの二の丸(西の丸)とに分かれていた(日本城郭大系』 9巻、新人物往来社、1979年、291頁。 
  13. ^ 愛知県中世城館跡調査報告(尾張地区) 1991年(平成3年) 愛知県教育委員会 p137

参考文献

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  • 柴裕之 著「戦国期尾張織田氏の動向」、柴裕之 編『尾張織田氏』岩田書院〈論集 戦国大名と国衆6〉、2011年。ISBN 9784872947151 
  • 下村信博 著「織田信秀の台頭」、柴裕之 編『尾張織田氏』岩田書院〈論集 戦国大名と国衆6〉、2011年。ISBN 9784872947151 下村信博 2011a。初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。
  • 下村信博 著「織田信長の登場」、柴裕之 編『尾張織田氏』岩田書院〈論集 戦国大名と国衆6〉、2011年。ISBN 9784872947151 下村信博 2011b。初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。
  • 谷口克広「織田信勝」『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、111-112頁。ISBN 9784642014571 

関連項目

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外部リンク

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