松前昌広
日本の江戸時代後期の大名。松前藩一門松前見広次男で、11代藩主
松前 昌広(まつまえ まさひろ)は、江戸時代後期の大名。蝦夷地松前藩の第11代藩主。官位は従五位下志摩守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政8年8月27日(1825年10月9日)[1] |
死没 | 嘉永6年8月8日(1853年9月10日) |
改名 | 準次郎(幼名)、昌広 |
別名 | 均斎 |
戒名 | 寛量院殿文俊耆徳大居士 |
墓所 | 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺 |
官位 | 従五位下志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶 |
藩 | 蝦夷松前藩主 |
氏族 | 松前氏 |
父母 |
父:松前見広、母:村山信敏の妹 養父:松前良広 |
兄弟 | 良広、昌広 |
妻 |
松平乗全の養女・浪子、 側室:山崎十三の娘・静 |
子 |
徳広、縄之助 養子:崇広 |
生涯
編集文政8年(1825年)8月27日[1]、第9代藩主・松前章広の次男・松前見広の次男として福山城にて誕生。天保4年8月11日、福山から江戸に移る。天保10年(1839年)7月21日、兄・良広の養嗣子となる。同年10月16日、養父・良広の死去により、家督を継ぐ。同年11月1日、11代将軍・徳川家斉にお目見えする。天保11年3月18日、従五位下志摩守に叙任する。
儒学者の山田三川を登用して藩政改革を行なおうとするが、当時の松前藩では藩主の早世が相次いだために重臣・松前内蔵広純(曾祖父の8代藩主・道広の五男)の専横が行なわれていた。このため、昌広は天保13年(1842年)9月、義父・松平乗全の力を後ろ盾にして12月に内蔵を家禄半分にしたうえで失脚に追い込み、江戸で蟄居させた。その上で三川を側用人・表用人として改めて用いて、天保15年(1844年)5月から倹約・風紀粛清・奢侈禁止などを中心とした藩政改革を行った。ただし、昌広は病弱な上に精神病にもかかっていたため、藩政は三川と松前広茂によって行なわれ、昌広は江戸の藩邸で養生していただけであった。
弘化4年(1847年)に入ると、昌広の病状はさらに悪化し、酒色に耽るようにもなったため、嘉永2年(1849年)6月9日、家督を養子・崇広に譲って隠居した。その後は福山城北東の北殿で余生を送り、嘉永6年(1853年)8月8日に死去した。享年29。
系譜
編集父母
正室
側室
- 静子 ー 山崎十三の娘
子女
- 松前徳広(長男)生母は静(側室)
- 松前縄之助(次男)
養子
脚注
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