松平信岑
松平 信岑(まつだいら のぶみね)は、江戸時代中期の大名。丹波篠山藩の第5代藩主。後に丹波亀山藩の初代藩主となる。官位は従四位下佐渡守、紀伊守。形原松平家11代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄9年9月10日(1696年10月5日) |
死没 | 宝暦13年11月20日(1763年12月24日) |
改名 | 九十郎・又七郎(幼名)、信岑 |
戒名 | 周誉道慧宏源院 |
墓所 | 京都府亀岡市北古世町の光忠寺 |
官位 | 従四位下佐渡守、紀伊守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 丹波篠山藩主→丹波亀山藩主 |
氏族 | 形原松平家 |
父母 | 父:松平信庸、母:前田利明の娘・菊姫 |
兄弟 | 信岑、庸倫、庸親、戸田種辰、信嵩、秀子、芳、種子 |
妻 |
正室:内藤義孝の娘 継室:内藤義英の娘 継々室:内藤清枚の娘 |
子 | 養子:信直、中山政信正室、本多忠弘正室 |
略歴
編集元禄9年(1696年)9月10日、第4代藩主・松平信庸の長男として誕生。宝永7年(1710年)12月に従五位下、佐渡守に叙任される。享保2年(1717年)、父の死去により家督を継いだ。
享保20年(1735年)に寺社奉行と奏者番を兼任する。享保の大飢饉で苦しむ領民に重税を強いたことにより、領民の不満が溜まり、篠山という要衝を統治し切れないと判断され、寛延元年(1748年)8月3日に丹波亀山へ移封され、篠山へは亀山藩主の青山家が入った。
宝暦6年(1756年)、従四位下に昇位する。宝暦13年(1763年)11月20日に死去した。享年68。跡を甥で養子の信直が継いだ。
系譜
編集脚注
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