深草

京都市伏見区の地名

深草(ふかくさ)は、京都市伏見区の北部に位置する地名。かつて同地域には紀伊郡深草町(ふかくさちょう)が存在した。

伏見区役所深草支所

概要

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伏見稲荷大社の千本鳥居

深草の名前は、『日本書紀』にて飛鳥時代上宮王家が所有した「深草屯倉」に現れ、京都盆地でいち早く稲作が始まっていたことは「深草弥生遺跡」から見ることができる。『和名類聚抄』の山城国紀伊郡にも深草郷(不加久佐)と記され、古代豪族紀氏土師氏渡来系の豪族秦氏が拠点とした地の一つとされている。秦氏の祖霊として創建された伏見稲荷大社は、全国の稲荷神社の総本社であり季節にかかわらず観光客で賑わっている。また地区の氏神で紀氏の祖武内宿禰を合祀する藤森神社では、毎年5月5日に深草祭(藤森祭)が催される。

 
伏見人形

地区の東半分は、稲荷山から大岩山、そして桃山へと連なる深草丘陵で、百済から日本に伝えられた頃から作られていたというや、伏見稲荷のお土産から全国に広まった土人形、そして三和土の原料となる良質な粘土質の深草土が産出した。また、稲荷山の南麓には竹林が広がり、天正年間には真竹を用いた平柄の丸団扇が考案される。この深草団扇は、現在も京の花街で名前を入れて配られる京丸団扇のルーツだが、骨組みが丸亀から仕入れられるようになり明治末期に衰退。現在の竹林には孟宗竹が植えられ、の産地となっている。

 
直違橋

桃山時代から江戸時代初期には、墨染七瀬川周辺や大亀谷一帯は、伏見城を中心とした大名屋敷の建ち並ぶ中央政治都市の一部を成し、伏見廃城後は幕末まで伏見奉行の管轄下にあった。地区内を南北に京街道の一部で伏見港と京都を結ぶ竹田街道国道24号)と伏見街道直違橋通)、川端通京町通を繋ぐ師団街道が、東西は西岸寺から稲荷山大岩山の間の峠を勧修寺に至る大岩街道と、名神高速道路、そして阪神高速8号京都線稲荷山トンネル東山を抜け山科との間を結ぶ。さらに、京都を通らずに大津宿伏見宿を結ぶ東海道五十七次の一部である大津街道は、藤森神社前で伏見街道から分岐し大亀谷の西福寺から大岩街道を経て髭茶屋追分に至り、墨染から八科峠を経て六地蔵に至る奈良街道墨染通)なども地区内を通る古くからの交通の要衝であり、京都市街地や山科区宇治市城陽市方面へのアクセスも容易である。

 
鴨川運河京阪本線

また、京都の中心部と伏見を結ぶ運河として江戸時代初期には東高瀬川が、明治には鴨川運河琵琶湖疏水)が開削され水運に用いられていた。そして鉄道は旧東海道本線稲荷駅から大岩街道の峠を越え、日本初の路面電車である京都市電伏見線が竹田街道に、また竹田街道から稲荷大社までの支線京都市電稲荷線もあったがどれも廃止され、現在は京阪本線、JR奈良線近鉄京都線が域内を通っている。

 
聖母女学院本館

町村制の施行により深草村が発足。深草町を経て1931年昭和6年)4月1日に、伏見市とともに京都市へ編入され伏見区の一部となった。昔から分区構想がたびたび出ていることもあり、地域内の住民登録や行政事務は深草向畑町にある伏見区役所深草支所にて独自に行われている。第16師団司令部が置かれていたが、戦後は庁舎が学校法人聖母女学院の本館となり、鴨川運河に架かる橋に施された意匠や、師団街道、軍人湯などの名称、国立病院機構京都医療センター(旧京都衛戍病院)の存在などにも名残が見られる。周辺の陸軍用地跡には京都教育大学龍谷大学などが出来たため学生も多く住む。

町名

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前身 公称町名 町数
伏見第一区 深草稲荷御前町、深草稲荷榎木橋町、深草稲荷中之町、深草直違橋南一丁目、深草直違橋北一丁目、深草直違橋二丁目、深草直違橋三丁目、深草直違橋四丁目、深草直違橋五丁目、深草直違橋六丁目、深草直違橋七丁目、深草直違橋八丁目、深草直違橋九丁目、深草直違橋十丁目、深草直違橋十一丁目、深草山村町、深草十九軒町、深草直違橋片町、深草藤森玄蕃町、深草鳥居崎町、深草芳本町、深草北新町、深草七瀬川町、深草南蓮池町、深草北鍵屋町、深草北蓮池町、深草芳永町、深草極楽町、深草寺内町、深草飯食町 30
大字深草 深草新門丈町、深草柴田屋敷町、深草出羽屋敷町、深草越後屋敷町、深草佐野屋敷町、深草大島屋敷町、深草墨染町、深草紺屋町、深草宮谷町、深草石橋町、深草中ノ島町、深草藤森町、深草仙石屋敷町、深草関屋敷町、深草池ノ内町、深草向畑町、深草谷口町、深草鞍ケ谷町、深草馬谷町、深草向ケ原町、深草霧ケ谷町、深草鐙ケ谷町、深草東軸町、深草兜山町、深草白砂町、深草砂子谷町、深草東伊達町、深草神明講谷町、深草西伊達町、深草キトロ町、深草堀田町、深草枯木町、深草西飯食町、深草フチ町、深草小久保町、深草宝塔寺山町、深草極楽寺町、深草西出町、深草田谷町、深草坊町、深草僧坊町、深草真宗院山町、深草瓦町、深草東瓦町、深草中ノ郷山町、深草ススハキ町、深草ケナサ町、深草町通町、深草野田町、深草綿森町、深草塚本町、深草今在家町、深草ヲカヤ町、深草西浦町一丁目、深草西浦町二丁目、深草西浦町三丁目、深草西浦町四丁目、深草西浦町五丁目、深草西浦町六丁目、深草西浦町七丁目、深草西浦町八丁目、深草五反田町、深草川久保町、深草坊山町、深草僧坊山町、深草極楽寺山町、深草石峯寺山町、深草西出山町、深草飯食山町、深草砥粉山町、深草扇ケ原町、深草野手町、深草大門町、深草加賀屋敷町、深草泓ノ壷町、深草善導寺町 77
大字福稲 深草車阪町、深草南明町、深草正覚町、深草願成町、深草開土町、深草本寺山町、深草薮之内町、深草開土口町、深草笹山町、深草下高松町、深草相深町、深草一ノ坪町、深草下横繩町、深草上横繩町、深草森吉町、深草六反田町、深草藤田坪町、深草稲荷鳥居前町、深草フケノ内町、深草秡川町、深草中川原町、深草平田町、深草鈴塚町、深草下川原町、深草西川原町、深草向川原町 26
大字大亀谷 深草大亀谷内膳町、深草大亀谷金森出雲町、深草大亀谷大谷町、深草大亀谷東寺町、深草大亀谷西寺町、深草大亀谷八島町、深草大亀谷敦賀町、深草大亀谷岩山町、深草大亀谷大山町、深草大亀谷万帖敷町、深草大亀谷五郎太町、深草大亀谷古御香町、深草大亀谷東古御香町、深草大亀谷安信町、深草大亀谷東安信町、深草大亀谷古城山、深草大亀谷六躰町、深草大亀谷西久宝寺町、深草大亀谷東久宝寺町 19
その他 深草勧進橋町、稲荷山官有地 2

紀伊郡深草町は、昭和6年(1931年)に京都市に編入され、伏見区の一部となった。深草町は明治22年(1889年)の町村制施行時には深草村で、大正11年(1922年)に町制を施行している。明治22年(1889年)の村制施行時に、旧伏見第一区に属していた35町のうち28町を編入したが、これら28町は以下の字に改称した。

  • 稲荷御前、稲荷榎木橋、稲荷中之、直違橋南一丁目、直違橋北一丁目、直違橋二丁目〜直違橋十一丁目(10町)、山村、十九軒、直違橋片町、玄蕃、鳥居崎、北新、七瀬川、南蓮池、鍵屋、北蓮池、極楽、寺内、飯食

これら28字は、大正11年(1922年)の町制施行後は深草町の字となり、昭和6年(1931年)の伏見区成立後に「深草」を冠称する30町に編成された(字北新は北新町、芳本町、芳永町に分離)[1]

深草村(のち深草町)には、上記28字のほか、深草、福稲、大亀谷の3つの大字があり、これらは昭和6年(1931年)の伏見区成立後に計117町に編成された。このうち、大字深草は「深草」を冠称する74町に編成された[1]。大字福稲は大正7年(1918年)4月1日に十条通以北の区域が当時の下京区(現在の東山区)に編入され[2]、残余は昭和6年(1931年)に「深草」を冠称する26町に編成された[1]。大字大亀谷は昭和6年(1931年)に「深草大亀谷」を冠称する17町に編成された[1]

その他、以下のような町名の新設・改廃があった。

  • 昭和24年(1949年)編入:深草勧進橋町(当時の下京区上鳥羽勧進橋町の一部)
  • 昭和24年(1949年)合併:深草カラメ町・深草八反田町・深草小森町・深草松本町・深草陵町(上記はいずれも旧陸軍京都練兵場官有地無番地)・竹田久保町の一部→深草西浦町[3]
  • 昭和45年(1970年)町名町界変更:西浦地区土地区画整理事業の換地処分に伴い、深草西浦町→深草西浦町一丁目〜深草西浦町八丁目に再編[4]
  • 昭和55年(1980年)町名町界変更:桃山東地区土地区画整理事業の換地処分に伴い、深草大亀谷東古御香町、深草大亀谷東安信町を新設[5]

上記のほか、伏見稲荷大社東方の稲荷山の区域については、成立年次は未詳ながら[6]「稲荷山官有地」と称されている。以上により、当地区の町名は「稲荷山官有地」を含め154となっている。

交通機関

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鉄道

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高速道路

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名所・旧跡・観光

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藤森神社の本殿(旧御所賢所重要文化財

教育機関

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その他

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「内輪ばかり」という意味合いで「深草の名物」というシャレ言葉がある。かつて深草では団扇の生産が盛んだったことから、団扇と内輪を掛けたものである[7]

脚注

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  1. ^ a b c d 昭和6年5月15日京都市告示第99号
  2. ^ 大正6年10月9日京都府告示第475号
  3. ^ 『京都府公報』昭和24年10月11日
  4. ^ 京都市区の所管区域条例の一部を改正する条例(昭和42年3月24日京都市条例第52号)。換地処分の公告があった日は昭和45年(1970年)3月5日。
  5. ^ 京都市区の所管区域条例の一部を改正する条例(昭和54年9月27日京都市条例第17号)。換地処分の公告があった日は昭和55年(1980年)2月7日。
  6. ^ 明治6年(1873年)8月8日太政官布告第291号「旧境内ハ田畑ヲ除之外平地山林共凡テ官有地ニ相定」により、明治6年(1873年)8月以降に成立。
  7. ^ 井之口有一・堀井令以知『京ことば辞典』214頁、1992年、東京堂出版

関連項目

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