渡辺綱也
渡辺 綱也(わたなべ つなや、1914年(大正3年)6月9日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の国文学者、国語学者。新潟大学名誉教授。
略歴
編集1933年(昭和8年)3月に新潟中学校を卒業、1936年(昭和11年)3月に新潟高等学校を卒業、1939年(昭和14年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業[注 1]、東京帝国大学文学部大学院に入学[注 2]、1942年(昭和17年)3月に退学[5]。
1942年(昭和17年)4月に東京帝国大学文学部助手に就任、1943年(昭和18年)9月に陸軍予科士官学校教授に就任、東京帝国大学文学部助手を兼任、1944年(昭和19年)5月に東京帝国大学を退職、1945年(昭和20年)8月に陸軍を退官[5]。
1947年(昭和22年)9月に第四高等学校講師に就任、1948年(昭和23年)3月に第四高等学校教授に就任、1949年(昭和24年)6月に金沢大学法文学部助教授に就任、第四高等学校教授を兼任[5]。
1951年(昭和26年)10月に新潟大学人文学部助教授に就任[5]、1956年(昭和31年)8月から信州大学文理学部講師を兼任[6]、1957年(昭和32年)10月に信州大学講師を退任、1964年(昭和39年)10月に新潟大学人文学部教授に就任[7]。
新潟大学の助教授に就任してから定住した自宅のある津川町の公民館の副館長として、安倍能成、井上靖、村岡花子、天野貞祐、木村毅、谷川徹三、池島信平などを講師に招いて講演会を開催した[8]。また、東蒲原郡の方言の調査を行った[9]。
自宅の近くの阿賀野川で鮎を釣り[注 3]、その内臓などを塩漬けにしたうるかを酒の肴にして食べていた。1969年(昭和44年)秋、自宅に金田一春彦がまた訪ねて来て[注 4]、渡辺綱也の大きな書庫[注 5]で貴重な本を閲覧し、うるかを食べた[13]。
1972年(昭和47年)9月に渡辺綱也は新潟水俣病患者に認定された[14]。
1978年(昭和53年)4月に病気のため新潟大学を退官[15]、6月に新潟大学名誉教授の称号を受称[16]。
1979年(昭和54年)8月24日午前2時に新潟県新潟市紫竹山(現 新潟市中央区紫竹山)の新潟市民病院で肝硬変のため死去[17]。
『沙石集』の注釈という未開拓の分野において国語学の立場から本格的な校注を施し、多くの創見に満ちた古典解釈学を確立した。また、『宇治拾遺物語』にも詳密な注釈を施した[18]。
栄典
編集校訂書
編集校注書
編集論文
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 渡辺綱也と見坊豪紀と山田忠雄の3人が国語学者の橋本進吉に師事[2][3]。渡辺は見坊と仲が良く一緒に研究していて、見坊から三省堂の新しい国語辞書の編纂に誘われたが、報酬が少ない事から誤解して絶交した。戦後10年から15年たって握手して和解した[4]。
- ^ 1940年(昭和15年)4月に東京帝国大学文学部副手に就任[5]。
- ^ 藤川忠治は1957年(昭和32年)に津川町を訪れた時に渡辺綱也に次の短歌を贈った。「佐渡が島に蕨折りわがありしとき 君は阿賀野川に釣り耽りしか」[10]
- ^ 中央や地方の学者や学生が津川町の渡辺綱也を頻繁に訪れていた。植村清二は渡辺のことを「津川のボス」と呼んだ[11]。
- ^ 渡辺綱也は中学生の時に学期ごとの長期休暇には上京し、何日も神田古書店街で本を買いあさり、大きなリュックサックいっぱいに詰め込んで背負って帰ってきた[12]。
- ^ 渡辺綱也の同郷の先輩の沢田久雄(平凡社『大百科事典』編集事務長)が下中弥三郎(平凡社創業者)の協力で創業した出版社。1944年(昭和19年)1月に平凡社に統合され、沢田は平凡社常務取締役編集局長に就任したが、3月3日に東京で交通事故死した[21]。
出典
編集- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、6頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、8頁。『津川町の歴史と文化財』181頁。
- ^ 明解國語辞典 復刻版[国語辞典-国語-]|辞書は三省堂
- ^ 『明解物語』175頁。『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』75頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、5頁。『津川町の歴史と文化財』181頁。『図説・東蒲原郡史 阿賀の里(下)』225頁。『新潟日報』1979年8月29日付朝刊、7面。
- ^ 『明解物語』178・196-198頁。『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』75・95-96頁。
- ^ a b c d e 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、6頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、8頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、6頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、9頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、7頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、9頁。『新潟大学二十五年史 部局編』67頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、8頁。『津川町の歴史と文化財』181頁。『図説・東蒲原郡史 阿賀の里(下)』225頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、8頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、9頁。『図説・東蒲原郡史 阿賀の里(下)』225頁。『新潟日報』1979年8月29日付朝刊、7面。
- ^ 『東蒲原郡人物志』424頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、8頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、11頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、12頁。
- ^ 『新潟大学 国文学会誌』第18号、13頁。『新潟日報』1979年8月25日付朝刊、19面。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、7・13頁。『東蒲原郡人物志』413・415頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、9頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、7・13頁。『東蒲原郡人物志』413・416頁。『新潟大学二十五年史 部局編』1128頁。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、7・13頁。『東蒲原郡人物志』415頁。『新潟日報』1979年8月25日付朝刊、19面。
- ^ 『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、18頁。『東蒲原郡人物志』423-424頁。『新潟大学 国文学会誌』第22号、6頁。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第15803号、7頁、大蔵省印刷局、1979年9月20日。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第15802号、17頁、大蔵省印刷局、1979年9月19日。
- ^ 『東蒲原郡人物志』356・416頁。『図説・東蒲原郡史 阿賀の里(下)』223・225頁。
参考文献
編集- 「渡辺綱也先生をしのぶ」『東蒲原郡郷土誌 阿賀路』第20集、5-18頁、阿賀路の会[編]、阿賀路の会、1980年。
- 「渡辺綱也」『津川町の歴史と文化財』181頁、津川町文化財調査審議委員[編]、津川町教育委員会、2004年。
- 「渡辺綱也」『図説・東蒲原郡史 阿賀の里(下)』225頁、東蒲原郡史編さん委員会[編]、東蒲原郡史編さん委員会、1985年。
- 「渡辺綱也氏」『新潟日報』1979年8月25日付朝刊、19面、新潟日報社、1979年。
- 「豪放な笑い、厳格な指導 新潟大学名誉教授 渡辺綱也氏を悼む」『新潟日報』1979年8月29日付朝刊、7面、大橋勝男[著]、新潟日報社、1979年。
- 「新潟大学名誉教授 渡辺綱也」『東蒲原郡人物志』413-424頁、神田竹雄[編著]、現代思想社、1980年。
- 『新潟大学 国文学会誌』第22号、4-9頁、「特輯 渡辺綱也先生御退官にあたって」渡辺綱也・伊狩章[著]、新潟大学国文学会[編]、新潟大学国文学会・渡辺綱也先生退官記念事業会、1978年。
- 『新潟大学 国文学会誌』第18号 永井行藏先生退官記念特集号、伊狩章・箕輪真澄・屋形稔・諏訪春雄・渋谷武・ほか[著]、新潟大学国文学会[編]、新潟大学国文学会・永井行蔵先生退官記念事業会、1974年。
- 『新潟大学二十五年史 部局編』新潟大学二十五年史編集委員会[編]、新潟大学二十五年史刊行委員会、1980年。
- 『明解物語』柴田武[監修]、武藤康史[編]、三省堂、2001年。
- 『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』佐々木健一[著]、文藝春秋、2014年。