田村宗顕 (戦国大名)
田村 宗顕(たむら むねあき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。陸奥国の戦国大名。田村氏26代当主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正2年(1574年)? |
死没 | 正保5年(1648年)? |
改名 | 顕季、宗顕、牛縊定顕 |
氏族 | 田村氏 |
父母 |
田村氏顕 田村清顕 |
子 | 片倉定広、片倉良種 |
生涯
編集田村氏顕の子として誕生。初名は顕季。田村氏25代当主・田村清顕が天正14年(1586年)に嗣子のないまま没すると、家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達氏[1]と相馬氏[2]の勢力争いで分裂した。相馬義胤が三春入城を企てて失敗するなどの騒ぎがあったが、伊達政宗によって顕季が田村氏の当主とされ、家中の混乱は収まった。政宗から「宗」の偏諱を与えられて宗顕と名乗る。ただし、政宗と田村月斎・田村梅雪斎ら田村氏の重臣達の協議によって、宗顕は政宗と愛姫の男子が成長して田村氏の家督を継ぐまでの「名代」として位置づけられていた(田村仕置)[3]。
天正18年(1590年)、小田原征伐に際し、宗顕は伊達氏の旗下と自認していたため参陣しなかったが、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易された。その後、牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲し[4]、子・定広と男猿(片倉氏に改正時に良種に改名)は片倉喜多の名跡を継ぎ片倉氏を称した。宗顕の子孫は現在まで片倉姓を称している。田村氏の名跡は宗顕の死後、慶安5年/承応元年(1652年)に伊達忠宗[5]の三男・宗良が継いだ。