福島繁太郎

日本の画商、美術評論家

福島 繁太郎(ふくしま しげたろう、1895年3月9日 - 1960年11月10日)は、日本画商美術評論家[1][2]。妻・福島慶子も随筆家、評論家として知られた[1][3]

経歴

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株式仲買人で、日露戦争による相場急騰で財を成した福島浪蔵の子として東京に生まれる。[1][2]1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌1922年までイギリスに留学し、次いで1923年フランスへ渡り、長くパリに滞在した[2][4]。福島は滞仏期間中に同時代の多くの画家と交流し、特にジョルジュ・ルオーと親しく交際した[5]。また、多数の絵画を収集して、いわゆる「福島コレクション」を形成し、その多くを日本にもたらした[2][6]1928年、ないし1929年には、パリジョルジュ・ワルドマー (George Waldemar) を中心とする美術評論誌『フォルム (Formes)』を創刊した[2][7][8]

福島は、最終的に1933年暮れに帰国した[9]前後からコレクションの展覧会を企画するとともに[10][11]、帰国後は美術評論家として活動し[2]、また、銀座にフォルム画廊を開いた[12]

1966年には、ブリヂストン美術館で「旧福島コレクション展」が催され、ルオー、マチス、ドラン、ピカソなどの作品49点が一堂に展示された[6]

おもな著書

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  • 印象派時代、石原求竜堂、1943年
    • 印象派時代、文藝春秋社、1946年
  • エコール・ド・パリ 第1、東京出版、1948年
  • フランス画家の印象、毎日新聞社、1950年
  • ピカソ、新潮社(新潮叢書)、1951年
  • エコール・ド・パリ 2、新潮社、1951年
  • 近代絵画 : 印象派から現代まで、岩波書店(岩波新書)、1952年

脚注

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  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『福島繁太郎』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 福島繁太郎”. 東京文化財研究所 (2014年12月12日). 2014年12月25日閲覧。:出典=『日本美術年鑑 昭和36年版』、136頁。 
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『福島慶子』 - コトバンク
  4. ^ 金澤 2012 57頁は、福島の滞仏を1924年から1925年にかけてと、1926年から1931年の2期としている。これは滞在時期の起点と終点に関して、他の資料の記述と一致しないが、一時帰国その他の事情をどう解釈するかの違いによるものかもしれない。
  5. ^ 金澤・2012年57頁
  6. ^ a b “東洋の幻想 旧福島コレクション 国画会40年の展望 興味呼ぶ三つの展覧会”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 9. (1966年4月28日). "故福島繁太郎氏の収集したフランスを中心とする海外の作品は、日本にもってきたものだけで八十五点、そのほかフランスで集め、帰国の際に手放したものが三十五点といわれるが、日本に来た作品も、ほとんど散逸してしまった。こんどの出展作品は、...四十九点となっているが、..."  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ 金澤・2012年56頁
  8. ^ 創刊時期について、資料の多くは1928年としているが、金澤は1929年としている。
  9. ^ “巨匠・佳話を描く 六年経過・而も約束忘れず 遥々日本へ贈り物”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 118. (1936年4月2日). "...昭和八年暮福島氏夫妻が歸朝した時も..."  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  10. ^ 金澤・2012年58頁
  11. ^ “ピカソの海辺母子像”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 8. (1933年12月26日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  12. ^ “福島繁太郎氏(訃報)”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 7. (1960年11月10日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧

参考文献

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  • 金澤清恵、2012、「日本におけるジョルジュ・ルオーの紹介、あるいはその受容について」『成城美学美術史』2012年3月、17/18号49~69頁。NAID 110009611071

関連文献

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  • 図録『戦後洋画と福島繁太郎―昭和美術の一側面展』山口県立美術館、1991年
  • 安井雄一郎「福島繁太郎の生涯」-『三彩―特集 福島繁太郎とその時代』 526号、pp18-20、1991年7月
  • 福島慶子「うちの宿六」新版・中公文庫、1991年12月
  • 矢代幸雄「藝術のパトロン 松方幸次郎、原三溪、大原二代、福島コレクション」新版・中公文庫、2019年。